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〜 <文明>の新しいかたちを求めて 〜 ( 佐々木寛のブログ )

希望の政治学読本 
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    「希望の政治学読本」第5回目です。

      

    白永瑞『共生への道と核心現場』(法政大学出版局) 4400

     

     先の参院選終了後、現政権が真っ先に着手したのは、沖縄高江の米軍ヘリコプター発着場工事の再開であった。本土から機動隊を動員した目に余る強行に「沖縄つぶし!」の声もきこえてくる。沖縄では今、辺野古や高江の新基地建設に「島ぐるみ」で反対の声があがっている。しかし、それを単に安全保障や地域経済の問題として考えるならば不十分である。基地問題は、実際きわめて長らく集団的に差別され、侮辱されてきた沖縄の人々の、何よりも「誇り」や「尊厳」の問題であるからだ。だが、多くの日本人は、その深刻な事態について何も知らない。あるいは、知ってはいても知らないフリをし続けている。

     さらに、「この道しかない」という本土の権力者たちはこう言うかもしれない。「経済成長によってしか日本人の幸せは保証できないし、中央集権やナショナリズムによってしか日本社会の調和は実現できない。同様に、米軍に依存するしか日本の安全保障を担保する事ができず、したがって沖縄の犠牲はやむをえない…」。しかし本当にそうなのか。差別と犠牲の論理をこえた「共生への道」は不可能なのか。

     本土の私たちは、まず本書を手に取るべきだろう。本書は、中国史が専門の韓国人研究者による東アジア論であるが、この先の世界との向き合い方を考えあぐねている日本人こそが学ぶべき視点に満ちている。まずは、近代史の構造的矛盾が集積する「核心現場」に向かうこと。著者はその「現場」を、沖縄や台湾、分断された朝鮮半島などに見定める。東アジアの「共生の地平」は、これら「核心現場の住民たちの苦痛を含めた総体的な生に対する共感能力」から生まれる。

     近代史で徹底的に分断された東アジアだからこそ、そこから新たな普遍性が生み出される。著者が東アジアの近代と丸ごと格闘する中で生み出した、新しい主権構想(複合国家論)、そして新しい歴史研究のあり方(社会人文学)は、その新たな普遍への道標である。

    | 佐々木寛 | - | 10:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    希望の政治学読本 
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      「希望の政治学読本」第4回目です。

       

      和田武『再生可能エネルギー100%時代の到来』(あけび書房) 1400円

       

       「再生可能エネルギー100%社会」。エネルギー問題に多少は詳しい(と自分では思っている)人ほど、まずそんなことは「非常識」だと思うかもしれない。この国では、「原子力ムラ」、「安全保障ムラ」などのさまざまな「ムラの常識」が支配していて、そこから逸脱する議論はハナから相手にされない。しかし、その「常識」の信奉者たちの多くは、世界には他にもたくさんの「常識」があるという「常識」を理解できない。それゆえ、新時代の「常識」は、常にムラの外の住人に聞くしかないということになる。

       本書の著者も、元はムラの住人だった。しかし、そこから抜け出して新しい「常識」を見出し、訴え続けてきた。このように“転生”した人の言葉は聞くに値する。近い将来、再生可能エネルギーは間違いなく安価なエネルギーになる。デンマークは2050年までに再生可能エネルギーを100%、ドイツは電力の80%以上にする計画である。パラグアイはすでに3年前に149%を達成している。このような再生可能エネルギー中心のエネルギー政策は、一部地域の例外ではない。気候変動問題や経済雇用問題、安全平和問題をリアルに見据えた上で到達した、世界の趨勢となりつつある。

       本書によれば、このエネルギー社会のパラダイム・シフトを支える主役は、政府や大手企業というより、そのあり方を決める市民や自治体である。これからのエネルギー社会は、中央集権型=大規模依存型から、地域分散型=小規模自律型へと移行する。一国のエネルギー政策も、ドイツの「100%再生可能エネルギー地域」プロジェクトのように、それぞれの地域の事情に見合ったミクロな実践が基盤となるだろう。

       2004年まで太陽光発電の普及量が世界一だった日本、そして世界有数の豊かな再生可能エネルギー資源を誇る日本が、今なぜ世界とは真逆の道を歩んでいるのか。本書は小著だが、このような最重要の争点を包括的に取り上げ、新時代の「常識」を分かり易く提示する。

      | 佐々木寛 | - | 10:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      希望の政治学読本 
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        「希望の政治学読本」第3回目です。

         

        平田オリザ『下り坂をそろそろと下る』(講談社) 760円 

         

         

         私たちはいつまで「坂の上の雲」を追いかけ続けるのだろうか。本書が投げかける問いは根源的である。そもそも日本はもうアジア唯一の先進国ではなく、かつてのような成長などありえない。現政権が謳う「成長戦略」も、実はその場しのぎの空しい掛け声にすぎない。この国がまさに「坂を下る」プロセスの中にあるということは、本当はもう誰もが気づきつつある「現実」である。

         こんな聞きたくもない事柄をなぜわざわざ取り上げるのか。「自虐的」ではないか。しかし本書は、「下る」という新しい希望の道程を指し示す。まずは、虚勢を張ったり、ごまかしたりしないこと。自分の衰えや寂しさを正直に見つめ直し、その「現実」から再出発すること。そこから、「勝てないまでも負けない」強靭なリアリズムが生み出される。

         競争し、勝ち残ることだけを考えるメンタリティからは、えてして差別や排除の病理が生まれる。しかし、自らの弱さや寂しさの根源を見つめる心の習慣からは、他者への寛容や助け合いの契機が生まれる。本書のメッセージはシンプルだ。もうこの国の「不敗神話」は終わった。しかしだからこそ、世界と助け合っていくという、次の新しい生き方を模索することができる。

         本書によれば、この来るべき「新しい日本」を導くのは、他でもなく「人と共に生きるためのセンス」、すなわちコミュニケーション能力としての文化である。少子化問題も格差問題も、実はそれを解く鍵は文化にある。記憶力や偏差値ではなく「生きる知恵」や共同性を重視した新しい教育実践、利益や地縁ではなく「関心」で結びつく緩やかなコミュニティ、「文化の自己決定能力」と「ソフトの地産地消」によって再生する新しい地方の姿。本書が提起する数々の文化戦略=社会変革は、そのどれもが著者の経験に裏打ちされた説得力をもつ。「時代の坂を下る」新たな旅路は、けっして暗くはない。新しいリアリズムと希望の始まりである。

        | 佐々木寛 | - | 01:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        希望の政治学読本 
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          「希望の政治学読本」第2回目です。

           

          佐藤仁『野蛮から生存の開発論――越境する援助のデザイン』

          (ミネルヴァ書房) 3000

           

           本当に、「この道しかない」(自民党)のか。地方に住んでいると、中央(東京)から発せられるスローガンに反発を覚えることが多い。しかし、経済政策、エネルギー政策、安全保障政策、社会福祉政策、どれをとっても「もうひとつの道」を明確に示すことはそれほど簡単ではない。今、私たちが直面している<危機>は想像以上に根が深く、一時の政権や単発の政策などで克服できるものではないのかもしれない。「安全神話」や「成長神話」が崩壊したこの国で、いったい何をどう目指せばいいのか。

           本書は、開発研究の学術的論文集である。しかしその射程は、いわば「新しい文明論」としても読むことが可能なほど広い。日本は、野蛮→「半開」(半文明)→文明という明治以来の単線的発展論を経て、戦後は世界有数の開発援助国となった。そして同時に現在、援助する北とされる南(低開発)という二項対立を超えた、「開発以後」の諸課題にも直面している。つまり、グローバル化する現代世界では、人間の生存という共通問題の解決策を「南北の垣根を超えて地球規模で構想」しなければならなくなっている。

           本書が提起するのは、単なる開発批判でも、新しい開発モデルの提示でもない。ここで甦るのは、アリストテレスにまでさかのぼる<実践知(フロネーシス)>の伝統である。私たちは、それぞれの地域にとって本当は何が「貧困」で何が「豊かさ」なのかは明確には分からないまま、常に手探りで「開発」を進めなければならない。このスリリングな課題に対処するためには、分業化した専門知というより、全体を見通すしなやかな総合知が必要となる。

          著者によれば、このようにそれぞれの地域の現実に即して思考する実践的な現場主義という意味では、国土開発も含めた日本の開発史には普遍的な意味がある。来るべき社会のヒントは、まさに自らの足元の歴史の中にこそある。専門書で、これほど読後に爽快感が残るものは少ない。

           

          | 佐々木寛 | - | 08:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          希望の政治学読本 
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            またしても、多忙を言い訳に3か月ぶりの投稿です。

             

            おかげさまで初めての選挙に勝利し(!)、しかし歓喜にひたる十分な暇もなく、疲れが出たのか夏風邪をひいていたところ、『日刊ゲンダイ』に毎週水曜日に書評を連載することになりました。シリーズのテーマは「希望の政治学」。ですから、このブログの趣旨とほぼ同じです。それでここには、すでに活字になった原稿を随時掲載することにします。

             

            第1回目は、柄谷行人さんの新刊です。

             

            柄谷行人『憲法の無意識』(岩波書店) 760

             

             参院選が終わり、自公政権が「圧勝」だったというマスメディアの報道は、はたして本当だったのだろうか。結果をつぶさに見れば、現政権の「終わりの始まり」を看てとることはできないか。少なくとも、「改憲」へのゴーサインが出たという総括には無理がある。

            選挙期間中、現政権は極力「改憲」を争点化しないように努めた。しかし選挙後には、予想通り、「承認が得られた」として着々とその手続きを進めようとしている。くり返されるそのような政治手法に、当の国民もいくらなんでもおかしいと思い始めている。今後いずれにせよ、都知事選や衆院選を迎える中で、安倍政権下の政治では、ますますこの国家の構成原理=憲法をめぐる問題が争点となるだろう。

             しかし本書を読めば、安倍政権の目論見がそれほど簡単ではないことがわかる。それは、日本国憲法九条の枠組みが、日本人の(徳川時代にもつながる)歴史的な「無意識」に根差すもので、それが常に超越的に現実社会を規制するからだ。著者によれば、九条は憲法の条文である以上に、日本の「文化」(超自我)である。したがってこの原理に反すれば、いかなる政治権力もその足場を失うことになる。さらにこの「文化」は、世界史上の無数の平和思想から「贈与」されたという普遍的経緯を有しており、その意味で、憲法が「押し付けであったかどうか」という議論はきわめて皮相的なものとなる。

             本書は、「九条があれば安心」というタイプの条文信仰の議論を排し、いわば「九条の血肉」を明らかにし、そのリアルな普遍性を再確定しようとする。「改憲派」であろうと「護憲派」であろうと、憲法議論は少なくとも本書が到達した地平から出発すべきだろう。すなわち、日本の「改憲」問題の中心にはしっかりと九条の問題が鎮座しているという政治的事実。そしてそれが「押し付けられた」がゆえに普遍性をもっているという政治的事実である。

             

            | 佐々木寛 | - | 08:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            「新しい政治」について
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              また前の投稿から時間が経ってしまいました…。

              この間、夏の参院選に向けて、今私が住んでいる新潟で「野党統一候補」を実現すべく、「市民連合@新潟」の共同代表として奮闘していました。「市民連合@新潟」は昨年12月に立ち上げたので、この活動はもう約4か月になります。

              いろいろありました。未知の体験ばかりでした。政治学者の端くれであるにもかかわらず、選挙や政党の内側にある生々しい実像も、ちゃんとわかっていなかったのだと思います。勉強になりました。

              正直、これまで「選挙」自体には、他の政治的な争点に比べて元来あまり高い関心があったわけではありません。けれども、近年特に「一度選挙で勝てば何をやってもいい」と言わんばかりの傍若無人な政権が暴れまわっているので、さすがに次の選挙ではくさびを打っておかなければならないと、一人の市民として重い腰をあげたわけです。

              幸い、新潟では、いくつもの偶然と関係者の努力によって、民進党・共産党・社民党・生活の党・新社会党・みどりの党の野党6党が推薦する野党統一候補が実現できそうです。手前味噌になりますが、これほど包括的な野党統一候補で、かつ市民連合がその共通の場づくりに活躍した例は、全国でも稀だと思います。

              全国でも進む「野党統一候補」運動の最大の功労者は、明らかに共産党です。志位和夫は今、永田町で一番光っている政治家だと言えるでしょう。しかし、影の功労者は、皮肉にも、歴史上例を見ない程に分かり易く国民を愚弄し続けた安倍晋三かもしれません。野党を結束させたのは、他でもなく与党の強権政治自体だったと言えます。

              野党(Opposition)は、文字通り、「与党に対抗する力」です。言葉を変えて言えば、「公的異議申し立て」の力です。それはデモクラシーにとって不可欠の条件です。それがなくなると、社会は全体主義に向かいます。今回の新潟も含めた「市民連合」の試みが持つ意味は、まさにこの「Opposition」の機能を社会に回復させることにあると、私は思っています。

              全ての絶対的政治権力は絶対に腐敗する…。それは歴史の法則です。生命が常に新陳代謝をするように、政治権力も常に非権力者にチェックされ、相対化されなければ、社会は健全に存続できません。定期的に行われる選挙はそのためにあります。また、ひとりの市民も、その永続的な「Opposition」を形成するために、政治権力からまったく「自由」であるわけにはいきません。ここが重要です。自らが政治権力から免れていると思う事は、実は、政治権力の恰好の餌食になることでもあるからです。

              さて、政治がしょせん「悪さ加減の選択」だとしても、市民が積極的に選挙活動に関わるという事は、この国ではなぜかあまり良く思われていません。「市民連合@新潟」でも、今そのジレンマに悩まされています。統一候補を誕生させ、いわばそれで終わってもいいのですが、本当に「Opposition」の機能を社会に回復させるためには、その候補を現実に当選させる必要があります。M.ウェーバーの「責任倫理」というやつです。政治は結果がすべて…。良心に基づいて一生懸命やっても、結果がダメなら政治的には意味がありません。この宿命もまた、市民が共有しなければなりません。「きれいな市民」「イノセントな市民」は理念型としては存在しても、現実の政治的実践においては、そんなに簡単にはありえません。

              「3・11」後、この国では、これまでデモにも行ったことがなかったような人たちが大勢、国会前や公園や広場で「公的異議申し立て」を日常的に行うようになりました。それは否定しようもなく、この国のデモクラシーが一歩前進した証です。長年の「おまかせ政治」の限界が明らかになっているわけです。さらに、こういった自分の生活・生命・社会のあり方を、自分の言葉で考え、表現しようとする人々が、今度は選挙という制度的デモクラシーの場においても積極的に発信し、社会的対話を積み重ねるようになっています。もちろん、何でも「参加」すればいいってもんじゃありません。いつも政治権力に対しては、注意深く接する必要があります。

              しかし、「観客=評論家」としての市民だけがいくら居ても、結果的にデモクラシーは発展しないどころか、むしろそれを劣化させてしまうことが、だんだんと明らかになりつつあります。「デタッチメント」ではなく、「関与し、まみれる市民」。まみれて、衝突し、そして「学び合う市民」。「闘争」に参加することは、必ずしも平和に反する事ではありません。戦争や大規模な暴力を回避するために日常的に「闘う」ことがいかに重要か、「和」を好む日本人の私たちは、特により強く自覚する必要があると思います。

              「新しい政治」といっても、古くて新しいことを、何度も何度も再発見することでしかありません。そしてその「発見」は、いつの時代も、生(なま)の政治状況の中で、その試行錯誤の中でのみ可能となります。たとえば、「選挙は選挙のプロがやる」という常識をまずくつがえす必要があります。選挙もまた、市民の深い教養や身のこなし、文化の一部として実行されなければなりません。いわば、「選挙を民主化する」わけです。

              新潟でも、日本でも、この新しい市民政治はまだ始まったばかりです。これからたくさん躓(つまづ)きながらも、デモクラシーが成熟する長い道程の基礎を築くことができると信じています。かつての先人たちも、勇気をもってそれを為し遂げましたが、私たちもそれに倣おうと思います。

               
              | 佐々木寛 | - | 01:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              地方金融の小さな革命
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                また本当に久しぶりのブログ執筆です。更新がなされないものの、意外にも全国のどこかで読んでいただけることもあるようで、このブログがきっかけでいくつか講演も依頼されるようになりました。<文明>の新しいかたちを求めて、日々の思考の切れ端を、途切れながらも地道に書き記していこうと思います。今日は、地方金融の話です。

                先日、私が関わっている新潟の市民エネルギーの試み(おらってにいがた市民エネルギー協議会)が保有する子会社(おらって市民エネルギー株式会社)が、地元の第四銀行から、2億4600万円の融資を受けることが決定しました(詳細は、https://www.daishi-bank.co.jp/release/pdf/160120-3293.pdf)。現在建設中の約1000kwの太陽光発電事業に対する融資です。

                もう公表しても良いと思うのですが、なんと連帯保証人もパネルの担保も取らない融資で、15年間1.85%の固定金利です。

                第四銀行は、全国の地銀の中でもおそらくもっとも「保守的」な銀行のひとつであると思いますが、その意味では「歴史的快挙」といっても過言ではないと思います。第四銀行の歴史のみならず、おそらく新潟の金融の歴史の中でも画期的な出来事であったと思います。

                もちろん、現在危機に瀕する地銀が今後も地域で生き残っていくためには、地域にお金が循環するこのような事業に積極的に関与していく姿勢が不可欠になっています。また、私たちの事業は、「パートナーシップ協定」による行政(新潟市)との包括的な協力関係もあり、事業の公益性が高いことも、融資の大きな追い風になったと思います。

                しかし、この間の経験で学んだことは、このような金融やお金の世界も、実は「数字」だけでなく、それよりも「人」のファクターが決定的に重要であるということです。銀行融資担当の若く優秀なメンバーたちは、事業の可能性や理念を理解すると、これまでに例のない複雑な案件であるにもかかわらず、審査部に対して粘り強い交渉を繰り返し行ってくださいました。私見では、彼らは通常の仕事よりは半歩か一歩ぐらいははみ出しながら、事に当たっていたと思います。最終的に私たちは、「銀行担当者とお客様」という関係よりも、若干「同志」ともいえるような関係で事を成したという実感もありました。

                まだご本人たちに確かめたわけではありませんが、「新潟(の未来)のため、一肌脱いでください」、という呼びかけに、彼らも応えてくれたのだと思います。この市民エネルギーの活動全般に言えることですが、このような銀行の方々のみならず、市役所の職員の方々、地元施工業者の方々、マスメディアの方々などなど、どの職業人も「自分が生活し、子どもや孫が生きる地域のために」、半歩か一歩、自分のルーティーンを少しだけはみ出して協力してくださっています。この「ほんの少しだけはみ出した人々」の連鎖こそが、「おらって」の推進力の秘密であると感じます。

                タイトルにある地方金融の「革命」というと少々おおげさかもしれませんが、私が経験した小さな革命の大きな可能性について、書き記しておこうと思います。地方で生み出された財やお金が地方を真に豊かにするために循環する構造をつくりだすこと。そのためには、これまでのように中央や上からの既定路線ではなく、下から生成する小さな新しい可能性に賭ける勇気をもつことが必要です。そして何より、それを推進する力は、最終的には個々の「人」に他ならないという真実を再確認することが大切だと思います。

                 
                | 佐々木寛 | - | 04:36 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
                市民エネルギーという先端――新しい「発展」と「安全」を求めて
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                  またまた本当に久しぶりの投稿です。「多忙」は言い訳になりませんが、本当に多忙を極めていました。気がついてみれば約6か月ぶりです。

                  世の中は、安全保障をめぐる問題、経済政策をめぐる問題について、それぞれ大きな意見の断裂が見られますが、まずはどちらの問題も深く相互につながっているという事実から出発する必要があると思います。

                  国際連合は創立70周年にして「持続可能な発展のための目標(SDGs)」を掲げ、ようやく地球的問題群の各分野に深い相互関係があってそれらを包括的に把握して取り組む必要性(“知のプラットフォーム”)を訴えていますが(https://sustainabledevelopment.un.org/)、グローバル化の時代には、一国の問題も全部相互につながっています。

                  安倍政権の安保政策も経済政策も「この道しかない」というわけですが、それは憲法の平和主義という戦後の約束を違えてでも、世界中で自在に軍事行動のできる軍隊を備え、たとえ兵器や原発の売買に手を染めてでも、あのかつてのような経済成長をもう一度、という極端(かつ時代錯誤、かつ非現実的)なものです。一方、それがあまりにムチャなので、国民的な反対運動が巻き起こっていますが、それは「この道しかない」というその道の先には、どう考えても展望がないからです。

                  しかし、それじゃ「この道」以外の道はあるのか、ということが問題なのですが、経済成長や発展そのものを否定する、あるいは安全保障政策を考えることもいっさい止めるというわけにはいきません。ややもすると、今の政権に反対の立場の人の中には、そういった主張をする人も散見できます。しかし私の判断では、「経済発展」と「安全の保障」は、国民や市民にとっても最重要の問題として何らかの「答え」を出す必要があります。問題は、「もうひとつの異なったタイプの“発展”」や「本当の意味における“安全“」を構想できるか、という一点にあるように思えます。

                  日米安保への従属は止めるべき、原発の再稼働は止めるべき、TPPへの参加は止めるべきだとして、「発展」や「安全」をどのように実現するかを真剣に考える必要があります。私にとって市民エネルギーの試みは、「新しい発展」と「新しい安全」を模索するための、もっとも有望な道筋にほかなりません。

                  市民エネルギーの試みは、「成長」や「発展」を否定しません。ただ、これまでのGDP優先主義や生産力主義、効率優先主義とは異なる原理を模索します。つまり、「成長」や「発展」の再定義を行います。市場やお金も否定しません。それらは健全に機能するなら、自由な社会に不可欠だからです。しかし、現在のような怪物化した非人間的な市場や金融を否定します。人間にとっての人間のための人間の顔をした経済を目指します。

                  また市民エネルギーの試みは、「保守」の思想を否定しません。つまり、「安全」や「伝統」を重視します。しかし、現在のような「保守」の名を借りた事実上の社会の破壊について強く反対します。「強いものだけが生き残る」という社会は、実は弱い社会です。軍事同盟や軍事力に依存する安全もきわめて脆い。多くの脅威から家族や仲間、郷土を守るのは本当は何であるのかを真剣に考えます。

                  そしてまた、市民エネルギーの試みは、生活や社会の礎であるエネルギーを媒介に、あらゆる境界を越えて展開します。強靭で自立した個々のコミュニティが相互に助け合う、グローバルなネットワーク社会を構築します。そしてそれは、開かれた社会と新しいデモクラシーの実験場となるにちがいありません。

                  どうでしょう。確かに、私は<夢>を見ています。しかし、こんなにも手ごたえのある<夢>を見るのは初めての事です。
                  どうかいっしょに<夢>を見ませんか?

                   
                  | 佐々木寛 | - | 00:08 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
                  文明 タイプ0
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                    本当に久しぶりの投稿です。市民エネルギープロジェクトで多忙を極めていました。

                    このプロジェクトについての省察は、またおいおい投稿できればと思います。今回は、宇宙論からのお話し。

                    たまたま宇宙理論の話をテレビを観ていたら、「並行宇宙」や「暗黒物質」、「超弦理論」などの最先端の話に加え、コントロールできるエネルギーの種類と規模で「文明」を分類できるという興味深い話もでてきました。それによると、「文明」は、タイプ機兵分の惑星のエネルギーを気象等も含めすべてコントロール)、タイプ供兵分の惑星と恒星のエネルギーをコントロール+自分以外の惑星に一部植民地も建設)、タイプ掘兵分が所属する銀河系のエネルギーすべてをコントロール)があるということになるそうです。もちろん、私たちの「文明」はタイプ気砲眛呂ず、「タイプ0」にとどまっています。私たちの「文明」がタイプ兇筬靴砲覆襪砲蓮⊃兆年かかるかもしれません。とにかく話のスケールが巨大で、その点さすが宇宙理論です。

                    けれども、良く考えると、こういった「文明」観自体が古いパラダイムに依拠しているのではないか、とも思います。そもそも「自分の惑星のエネルギーをすべてコントロールする」「植民地をつくる」という発想自体が、モダニズムの範疇を出ない気がします。タイプ兇播仂譴垢襦崑斥曄廚...エネルギーを拝借しつつ、タイプ気良饌罎任△誅農韻亮然環境の中で、そのエネルギーもむしろ「受け身で」活用していくというパッシブな「文明」は、「文明」のタイプとしては進歩ではなく退化に当たるのでしょうか。

                    もし宇宙のどこかにきわめて長く持続し、高度に発達した「文明」があるとすれば、それはどんな「文明」でしょうか。自然科学者から見ると、それは宇宙のきわめて広範なエネルギーを支配する巨大文明ということになるのかもしれません。確かに、宇宙人が地球人の「文明」を見た時に、「まるでアリがアリ塚をつくっているように見える」、「アリに原子力をあげるから、女王アリに会わせてほしいと言わないように、宇宙人も私たちに無関心である」のかもしれません。けれども、違う考え方も可能です。何千万年、何兆年も続く「文明」がもし存在するとすれば、それは自己の限界を十分に理解し、宇宙と調和しながら生き続けることを選択した「文明」なのかもしれません。そう考えれば、スターウォーズのようなイケイケの「文明」像ではなく、逆に思いのほか地味な「文明」像が浮かび上がってくるかもしれません。つまり、「アリ塚をバカにするな」、ということです。


                    それにしても、50億年経てば、太陽も寿命がきて、地球も太陽に飲み込まれるかもしれません。太陽は超巨大な核廃棄物の塊となるのです。私たちは星屑から生まれて星屑に還る…。すべてには終わりがあるのだということです。
                    | 佐々木寛 | - | 10:59 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
                    「おらって」にいがた市民エネルギー協議会 設立趣意書
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                      設立趣意書
                       
                      2011311日の東日本大震災とそれにともなう福島の原子力災害は、「天災」あるいは「人災」であると同時に、日本の戦後や近代文明のあり方そのものを問い直す「文明災」とも言われました。またこの災禍は、中央が潤うために地方が負担やリスクを背負うという、中央と地方との不平等な関係も浮き彫りにしました。今まさに私たちは、これまで築いてきた社会のあり方や「豊かさ」そのものを根源から問い直し、未来の世代に引き継ぐための新しい社会のあり方を模索しなければならない時代を迎えていると言えます。
                       
                      この「新しい社会」は、それぞれの地域の現実に即して市民が自らの力で発案し、創り出す必要があります。またその実現のためには、地域経済、金融、地方行政、消費文化やライフスタイル、あるいは地域の安全保障に至るまで、きわめて包括的な課題に取り組まなければなりません。そこで、このような課題に適切に対応するものとして、現在世界中で注目されているのが、市民によるエネルギー事業(市民エネルギー)の試みです。「文明の血液」とも言えるエネルギーのあり方を、その生産から流通、消費に至るまで、市民自らが考え、実践する「市民エネルギー」の試みは、市民による包括的な社会分野への参加を可能にするため、世界中で民主主義そのものの深化と拡大を促しています。
                       
                      この「市民エネルギー」の実践は、さらに地域に新たな雇用や財の流れを生み出し、地域の内発的な発展を促します。ヒト・モノ・カネの流れが中央に集中する経済・社会構造を徐々に変更し、真に自立可能な地域への転換を促します。21世紀は中央集権システムが世界中で限界を迎え、真の地方分権や地域の自立が求められる時代となりましたが、地方が実質的な活力をとりもどすためには、中央のみならず、地方自らが創意工夫し、自立のための具体的な実践を積み重ねていく必要があります。またさらに、それら地域ごとの実践が相互に連帯することで、この国に実体的かつ強靭な経済的・社会的基盤を創り出すことが可能となります。
                       
                      幸い新潟は、豊かな自然に恵まれています。私たちは、ここ新潟でも「市民エネルギー」の試みをスタートさせる必要性を確認し合いました。年齢、職業、信条、関心などにおいてきわめて広範な市民が多数集まり、新潟における「市民エネルギー」の可能性について今日まで協議を積み重ねてきました。その結果、私たちは、このような広範な参加者がエネルギーや地域社会のあり方に関して恒常的に協議する場がきわめて重要であることも再確認しました。
                       
                      このような経緯から、今日ここに私たちは、新潟の自然や伝統を活かしつつ、未来世代のいのちが尊重される新しい地域社会の姿を実現するため、「一般社団法人 おらってにいがた市民エネルギー協議会」の設立を宣言したいと思います。
                       
                       
                      平成26年(2014年)1221
                       
                      おらってにいがた市民エネルギー協議会
                      発起人一同
                       
                      | 佐々木寛 | - | 23:49 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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