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〜 <文明>の新しいかたちを求めて 〜 ( 佐々木寛のブログ )

県知事選挙が終わって−−「市民と野党の共闘」ついて。
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    前の投稿がクリスマスイブですから、あれから半年以上が経ってしまいました。

    4月からまた学部長になり、講演依頼もどんどん増えただけでなく、思いがけない選挙がありました。

     

    2016年の参院選、県知事選、2017年の衆院選と、新潟県では市民と野党の共闘が「3連勝」だったのですが、今年の県知事選には惜敗しました。たとえ1票差であっても、選挙は勝たなければなりません。今回の敗北は、もし勝っていれば、安倍政権の存続を防いだでしょうし、政府の原発推進にもストップをかけられたと思うので、本当にこの国のゆくえを暗くしてしまいました。悔やんでも悔やみきれません。

     

    しかしその一方で、敗北からは多くの「学び」がありました。これは勝ったときの比ではありません。

    その一つ一つは、追々お伝えできると思いますが、今日は最大の「学び」についてです。

     

    市民と野党の共闘が上手く行く条件について。ひとりの政治学者として、自分の経験から、あえて誰にも遠慮せずに率直に結論を言えば、「政党や政治家主導では、市民と野党の共闘が成功することはきわめて難しい」、ということです。それは、今回の選挙で特定の誰彼がどうこうというのではなく、既存の政党や政治家が本来持っている、ある<限界>についての問題に他なりません。政党組織や政治家は、良かれ悪しかれ「権力の最大化」という、何よりも優先する行動原理があります。そういったアクターが繰り広げる権力ゲームの中では、時に相矛盾する利益関係にあるアクター同士の広範な共闘関係の構築は概して困難となります。そしてまた何よりも、この既存の政治権力ゲームが支配的になれば、一般市民の「参加」の程度はますます限定されてしまうという問題が生じることになります。

     

    これまで新潟において「市民と野党の共闘」が成功してきた背景には、他の地域と異なる一つの条件、つまり、市民勢力が候補者選定の段階から、終始選挙体制構築のイニシアチブをとってきた、という事実があるのではないか。まさにバッファーとしての「市民」が、相異なる野党同士を接着させてきたという事実にこそ、「野党共闘」の秘密があったのではないか、ということです。

     

    残念ながら、さまざまな事情から、今回の県知事選挙では、市民勢力は政党政治の従属変数になってしまっていたように思います。私も恥ずかしながら、それが市民政治の「進化」だと思っていました。いつまでもアマチュアが出張るのではなく、政治のプロが、プロの本来の仕事を始めて、それをアマチュア(市民)がバックアップする形で良いのではないか、それが政治本来のあり方なのかもしれない、とさえ思っていました。しかし、それは「進化」ではなく、歴史の針を逆に戻すことだったのかもしれません。

     

    いろいろと思うことあって、今月、「市民政治塾」を立ち上げることにしました。

    詳細はまたお伝えできると思います。

     

     

     

     

     

    | 佐々木寛 | - | 01:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    クリスマスイブに。
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      またしても、本当に久しぶりの投稿です。

      本来は、進展する市民エネルギー事業のこと(特にデンマーク訪問について)、新潟県政のこと(何よりも検証委員会のこと)など、書かなければならない多くのことがあったのですが、スキップしてしまいました。ひとこと、公私とも「忙しかった」わけです。

       

      今日は文字通りの完璧な「休日」。こんな日が以前いつあったのか思い出せません。ぜいたくにも、お昼まで布団から起き上がらず、本当に久しぶりに「寝切った」気分で、シャワーを浴び、買い物に出かけました。街は年の瀬のクリスマス気分。カップルや家族連れが目につきます。

       

      私も一応50歳を過ぎ、半世紀以上生きたことになるので、いろいろと今になってわかることがあります。

      子どものころ、まじめだけが取柄の私の両親は、クリスマスになると貧しいながらもおもちゃのようなクリスマスツリーを部屋に飾り、ケーキを買ってきたものでした。貧しいので、友だちに比べると貧相なプレゼントでしたが、朝目を覚ますと枕元に必ずプレゼントがありました。2DKの団地に5人の家族が住んでいたので何かと手狭なのですが、幸せでした。

       

      「小市民」を絵にかいたような私の両親は、子どもを近くのキリスト教系の幼稚園に通わせ、クリスチャンでもないのに夜にお祈りをさせてから寝かしていました。クリスマスも、クリスチャンでもないのに、たいそう頑張って盛り上げていたのだと思います。おかげで、私もクリスチャンでもないのに、クリスマスの季節になると今でも胸が締め付けられるような甘酸っぱい思いになります。

       

      年の瀬の、クリスマスの街は、小市民たちの祭典です。今夜は暖かい部屋で、愛する家族や恋人、友人たちと温かい料理を囲んで過ごす人たちがたくさんいるのでしょう。でも、いつも思うのですが、それ以外の人たちは今日をどんな思いで夜を過ごすのでしょう。今、東京で一人暮らしをする私の息子も、今夜はきっとアルバイトで夜を明かすか、一人狭い部屋でいつものように質素に過ごすのでしょう。今や日本人の約半分が単身世帯ですから、「典型的な」クリスマスの夜は、もう半分の人間にはまったく関係ないことなのかもしれません。先日の新聞で見たように、シングルマザーで「クリスマスなんか来ないほうが良い」と思っている人もたくさんいるでしょう。あるいはそれ以前に、風をしのぐ家もなくて、毎日とても不安で寒い思いの人も少なくないでしょう。

       

      それにしても思うのは、何はともあれ私たちは、この70年以上、戦争に巻き込まれてこなかった、という事実です。私も含め、小市民たちが平和に生きてこられた。沖縄やアジアの人々に矛盾を押し付けたり、原発が爆発したり、猟奇的な犯罪が多くあったり、政治が腐敗したり、貧富の格差が拡大したりしても、ともかく、戦争はなかった。これは「戦後」を支えてきた先人たちに深く感謝するべきことかと思います。1966年生まれ団地育ちの私は、生まれも育ちも文字通りの小市民で、今でも小市民の味方です。クリスマスイブに家族のためにケンタッキーフライドチキンやケーキやプレゼントを買って帰る。この「特別な日」に街を歩く幸せそうな人たちを見て、こちらも特別な温かい気持ちになります。また、自分でも笑ってしまいますが、まるでウルトラ警備隊のように、この人々の小さな幸せをずっと守らなければならない!、などと思ったりもします。

       

      けれども、クリスマスイブの夜は、どうしても別の記憶や気持ちも沸き起こってきます。

      そういえば、もう早くに逝ってしまいましたが、子どものころキリスト教系の児童養護施設で育った私の友人は、毎年クリスマスになるとたくさんのプレセントをもって施設を訪れていました。本当にクリスチャンだったかわかりませんが、いつもは一人で寂しそうなのに、毎年この季節になると「メリークリスマス!」と嬉しそうに電話がかかってきました。また、寒い夜の街かどで一人、クリスマスイブの家々の灯を外から眺めていた、いつだったか、たしか若き新聞配達時代の記憶も蘇ります。

       

      今年は、一番戦争に近いクリスマスだと思います。社会がますます非人間化し、「戦争になってしまえばよい」という憎悪のつぶやきすらもきこえてきます。でも、戦争だけはいけません。それは、小市民の醜悪さや矛盾を一夜のうちに解消できるかもしれませんが、無数の死や破壊のほかには何も生み出さないでしょう。私はどんなにフェイク(偽物)でも、この戦後の「平和」を擁護したいと思います。

       

      来年は、<戦争や核を非合法化する>という、無数の犠牲の上に宣託された人類のまっとうな方向感覚を、いかに支え、強化できるのかが最大の課題になると思います。戦争に対しては、依然として全市民が「NO」と言えるだけの良心と理性はまだ残っていると信じています。どんなに堕落した平和でも、戦争よりはマシ。しかし、戦争を起こさないためには、平和を常に堕落から救い出す努力も必要です。

       

      幸い今年のクリスマスイブは、雨雪が降らず、めずらしく穏やかな夜です。

      クリスチャンではないのですが、すべての人に神の祝福があることを、心から祈ります。

       

      | 佐々木寛 | - | 16:51 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
      「学び」を回復する
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         日本中の大学が危機です。それはまず財政や定員充足といった、目に見えやすいものとして取りざたされますが、それよりももっと根源的な危機に大学は陥っていると思います。現在の大学の最大の危機は、大学が、行政や資本の下請けとなり果て、もはや新しい時代や社会を創り出す場ではなくなりつつあるということにあります。大学はもはや、大学である必要がなくなりつつあります。

         

         この根源的な危機に対してなすべきことは何でしょうか。私は確信しています。

         今、大学において必要なのは、他でもなく、「学びを回復する」ということです。

         

         それは何か(就職など)への準備などではなく、また、資格を取るといった有形の報奨などではなく、人間として永遠に続く「学び」そものものの回復、「学び」そのものの学びに他なりません。学びの永遠の喜びと可能性を学ぶ場所として、現在の大学はまったくの機能不全に陥っています。

         

         たとえば学生にとって必要なのは、学びの時間をゆっくり自ら味わうためのゆとりの時間なのです。必ず半期15回講義をすべし、学習時間を確保すべし、それによって学生の学力が向上するのだと考える、まさに思考力の欠如した文部科学省の方針はこの国の知的衰退の表れでもあります。またそれに唯々諾々と従う大学は、知の殿堂としてはもはや死に至る病におかされていると言わざるをえません。

         

         教育学者も、政治学者も、そしてすべての大学人も、今、この大学の惨状について声を挙げなければ、知の全体主義化を押しとどめることはできないでしょう。少しずつ慣らされ、少しずつ無力化されるという意味では、私たち大学人もまた、いわば21世紀の強制収容所の住人なのです。

        | 佐々木寛 | - | 11:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        新潟県の原発事故に関する検証委員会
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           昨年誕生した米山県政の公約でもっとも重要だった、「原発事故に関する検証委員会」のメンバーの一部が昨日公表されました。原発立地自治体とはいえ、一地方自治体が自前の予算で、これほど包括的に検証を行う例は日本で初めてではないかと思います。3・11後、政府事故調や民間事故調などによる大規模な検証がなされましたが、その後、この種の包括的な検証はなされていません。

           

           私は「平和」の条件を学問領域を横断する視点から考える「平和研究」の可能性を追求してきましたが、同じように、原発という複合的な問題領域を横断的に検証するこの検証委員会の試みが、かねてより歴史的にも学問的にもきわめて重要であると考えてきました。最大のメガテクノロジーのひとつである原発について、研究者や市民が時間をかけて徹底的に熟議を行うという意味で、ここでなされる試み自体が、単に一県知事の公約であることを超えて、さらにはるかに普遍的な意味をもっていると思っています。

           

           公約にあったように、これまでの「技術委員会」に加え、「健康・生活委員愛」、「避難委員会」、さらにはこれらを総括する「総括委員会」が設置されます。昨日は、「健康・生活」と「避難」の2委員会の委員の公表でした。私の名前も「避難委員会」に掲載されました。以前よりこの検証委員会の歴史的意義について知事にもお話し申し上げていたのですが、それもあってか、県より就任の打診を受け、快く引き受けました。

           

           まず、ここに参加するすべての委員や関係者が、この試みの歴史的意義について理解することが大切だと思います。そして、その意義が、何も原発の再稼働について、その賛否の結論を出すということよりもむしろ、まさにその議論のプロセスにあるということも理解されなければなりません。議論はあらゆる素朴な疑問や観点を排除してはなりません。なるべく多くの分野の専門家、加えて生活者や市民の視点を取り入れなければなりません。そこでできるだけ多くの争点を出し、「熟議」することがこの委員会の使命だと思います。委員会は原則公開し、議論された内容は、わかりやすく市民に伝えられ、市民間の学習や熟議の材料となる。それが理想だと思います。

           

           ほとんどはそうではありませんでしたが、一部の新聞では、私が知事選で知事を応援した主要メンバーであったがゆえに、「中立性」に疑義があるかのような記事をみかけました。それは残念ながら、全ての現象をわかりやすい右・左、白・黒の二元論で描こうとしてリアルな現実の把握に失敗してしまうという、まさに「アウト・オブ・コンテクスト」の一例だといえます。今、原発への評価について、いろいろな考えがある事は当たり前で、それを前提として、再度一から検証してみましょう、ということなので、熟議の始まる前からまるで結論が決まってしまうかのような考えをもつとすれば、それはもはや検証や熟議そのものの可能性を初めから否定することになってしまいます。

           

          また、「知事に近い人物がいると中立性が保てない」(ある県議)という意見は、論理的には、この委員会を立ち上げ、検証をふまえて最終的に判断する知事自体がそもそも中立的でないという前提となります。これはおかしな議論です。イデオロギーや党派などだけで物事を考えると、この検証委員会の本当の価値が台無しになってしまいます。

           

           原発への「評価」の前に、科学的な論理の積み上げがあります。またそれ以上に、そこに多様な「議論」がある。それが民主主義社会において最も重要な事なのです。

           

           この試みは「成功」するかしないのか、わかりません。今後の私たちの努力次第でしょう。けれども、もし「成功」するのだとすれば、それはこの試みに関わるすべての関係者が、こういった基本的な内容を十分理解し、合意することが前提にあると思います。

           

          <民主主義>が再び、試されているのだと思います。

           

           

           

           

          | 佐々木寛 | - | 17:45 | comments(0) | trackbacks(1) | - | - |
          希望の政治学読本 
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            『日刊ゲンダイ』の書評連載「希望の政治学読本」は、この12回目で最終回でした。当初予定されていた連載期間を大幅に超えました。この時はまだ知事選の結果が出る前でした。連載中はまさに選挙のど真ん中で、今思い起こすと自分でもよく書けたな、と思います。選んだ本はいずれもこのブログのテーマ、<文明>論に関わるものばかりです。

             

            なお、連載の内容は、日刊ゲンダイのHPでも見られます。

            https://www.nikkan-gendai.com/articles/columns/2694?page=1

             

             

            上村雄彦『世界の富を再分配する30の方法』(合同出版) 1,400

             

            「グローバル・タックス」の可能性

             

             新潟の激しい知事選が終わり(この原稿を書いている段階でまだ勝敗は全く予測できないのだが)、選挙戦の過程であらためて気がついたことは、日本の国家権力の真の姿であった。自民党の二階幹事長が経団連幹部との懇談で、「何とかして、(自民、公明推薦候補の)勝利を考えていきたいと思いますが、どうか電力業界など、オール日本でやっぱり対抗していかないといけない」と語ったように、「オール日本」というのは、官邸や与党とならんで経団連や電力業界のことを意味するらしい。私たちはその二階さんの言う「オール日本」と闘ったわけだが、それはつまり、今回の知事選では、私たち新潟の市民がその「日本」に入っているのかいないのかが問われたということになる。

             もう誰もが知っていることだが、現代世界の権力は、グローバル資本主義に根差している。簡単に言えば、富をもてる1%が残りの99%を支配する世界だ。もういいかげん世界全体を公正にしない限り、次々と噴出する問題を解決できなくなっている。しかもそれを暴力革命によって実現することもできない。残る方法はひとつだ。グローバルな制度を漸進的に変えてゆくしかない。

             本書が提起する「グローバル・タックス」(地球レベルの徴税制度)は、そのもっとも有力な方法のひとつである。化け物のような金融取引や悪魔のような兵器取引に税金をかけて、その集めた資金をエイズ対策や貧富の格差の是正、地球温暖化対策などに使う。いたって合理的である。ただ問題は、このような事実上の「世界政府」の機能をどうやって実現するのかということである。本書は、それを「絵に描いた餅」にしないために、きわめて具体的な方法を提示する。しかも「中学3年生くらいから理解できること」をめざして。

             本書の編著者は、長年に渡り、単に研究者としてだけではなく、活動家としてもこの問題一筋に取り組んできた。小著であるが、内容は豊穣である。

            | 佐々木寛 | - | 01:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            希望の政治学読本 
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              ジャレド・ダイアモンド『第三のチンパンジー』(草思社) 1,800

               

              人間の未来を考えるために

               

               先日、久しぶりにスタンリー・キューブリック監督の『二〇〇一年宇宙の旅』を観た。今から半世紀近く前の作品であるにもかかわらず、今観ても鮮烈な印象を与える傑作である。まだ言葉すらもたないサルが空中に投げる一本の骨が、一瞬で真空に浮かぶ宇宙船に変わるシーンは有名である。キューブリックの作品はいつも、「人間とは何か」を問うている。しかも、常にどこまでも冷徹なまなざしで。

               本書もまた、「人間とは何か」を問う。そしてキューブリック同様、はじめから人間に特権を与えたりはしない。もちろん人間は、言語や道具を操り、農業や芸術を生み出した。しかし、しょせん人間は「第三のチンパンジー」にすぎず、他の動物と共に生物的進化の長い旅路を歩む生命の一部であった。ただ、人間は特別な動物でもある。しかもそれほどは誇るべくもない意味において。

               まず、「みずからの種やほかの種を絶滅に追いやる能力」をもつようになった。「ジェノサイド」は歴史上、人間の習性であった。また、必ずしも生殖とは結びつかない「風変わりな性行動」を示し、体に悪い薬物を乱用し続けてきた。本書は、これら「不都合な真実」がなぜ誕生したのかを、生理学、進化生物学、生物地理学、言語学、人類学等々、多くの学問分野を越境し、明らかにしようとする。本書の魅力は、その豊富な知識に基づく壮大なストーリー展開であるが、人間の解明という包括的な課題には、そもそもこのような横断的知性が不可欠である。

               さて、自らを滅ぼす可能性がある私たち人間は、今後どうすればいいのだろうか。まず、自分たちがつくりあげてきた「文明」そのものを再度冷徹に見つめ直すことから始めなければならない。本書は、このように、「過去を理解し、将来の手引きとする」ために書かれた。つまり、人間の希望は、いわばこの歴史的な反省能力にある。

              | 佐々木寛 | - | 01:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              希望の政治学読本 
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                ツヴェタン・トドロフ『民主主義の内なる敵』(みすず書房) 4,500

                 

                 

                「民主主義」をあきらめないために

                 

                 私たちは今、本当に民主主義的な社会に住んでいるのだろうか?本書は、24歳まで「全体主義」のブルガリアで過ごし、そこを逃れて残りの三分の二の人生を「自由の国」フランスで生きた思想家の手によるものである。人間の幸福にとって「自由」や「民主主義」がいかに重要であるか、著者自身が身をもって知っている。しかし、「全体主義」に勝利し、この地上でいわば無敵の教義となった「民主主義」は、今本当に私たちを幸福にしているのか。著者の問いかけは根源的である。

                 確かに選挙や複数政党制など、制度としての「民主主義」は地球大に広がった。しかし、その「民主主義の衣装」をまとった社会の中身は、著者が「政治的なメシア信仰」、「個人の専横」、「新自由主義」と呼ぶような重い病に冒されている。そして何よりも深刻なのは、その病が私たちの体制の外側からではなく、今度はまさに私たち自身から生み出されているという事実である。「自由のある種の使用法は民主主義にとって危険である」。そしてまた、「民主主義は自分自身のうちに民主主義を脅かす諸力を分泌する」のである。

                 いわば、慎みを忘れた私たちの「自由」、「ピュブリス(傲慢)」こそが「民主主義の内なる敵」となっている。著者が何度も言及する福島の原発事故もまた、社会的責任よりもすべてにおいて個人的な利益を優先する「新自由主義」の結末であった。

                 それではどうすればいいのか。今度の敵は私たち自身である。まずは「民主主義」をあきらめないこと。本書が示唆するように、「民主主義の現実をその理想により近づけること」は可能である。世界と人間の不完全性を引き受けながら、「それでもなお」工夫を凝らし、他者と共に可能な限り非人間化した社会を変革していくことは可能である。

                 本書は、現代における「民主主義」の病理に深く迫る。しかしそのことによって逆に、現代における「民主主義の生命力」を回復する手立ても指し示している。

                | 佐々木寛 | - | 01:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                希望の政治学読本 
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                  大森美紀彦『《被災世代》へのメッセージ』(新評論) 1,800

                   

                  「単身者本位社会」を超えて

                   

                   リオ・オリンピックの熱狂が過ぎ去ったが、「次は東京オリンピックだ!」と明るい気分になれないのは私だけか。今日も福島第一原発ではあと何十年かかるかわからない廃炉作業が続き、もちろん放射性物質も漏出し続けている。何よりも住めなくなった故郷、分断された地域、離れ離れになった家族は依然として放置されたままである。

                   震災と原発事故によっていろいろなことが明らかになった。田舎の多くは「311」のずいぶん前からすでに荒廃していたし、東京と地方との関係はまるで宗主国と植民地の関係のようだった。都会でも「無縁社会」が進行していた。つまり、私たちは震災のずいぶん前からすでに「分断」されていたのだ。

                   本書はその理由を、「単身者本位社会」という概念で説明する。日本の近代化は、家族や村落共同体、地域を破壊し、そこから大量に生み出されたバラバラな個人(単身者)によって強い会社や国家をつくりあげた。根拠地を持たないこの浮遊した「孤人」は、時に会社を家族のように想い、社長を「親父」と呼んだりした。「衣食住」では何よりも「住」が軽視され、逆に単身者のためのさまざまサービスや娯楽(単身者文化)が発達した。「日本の別居子の五人に一人は年間を通じてほとんど老親に会っていない」など、本書は豊富な例を示しながら、日本がいかに「単身者」中心の「分断」された社会であるかを指摘する。

                   民主主義の前提には、明確に自分の意見を表明する自立した強い個人が必要だと言われる。しかしよく考えてみれば、その自立した個人は、けっして白紙から生まれるわけではなく、実は家庭や地域などのしっかりしたコミュニティがつくりだすものなのかもしれない。そしてもしそうだとすれば、再生されるべきは、競争を勝ち抜くための強い個人ではなく、抵抗の根拠地としてのコミュニティと、それを生み出す新しい実践に他ならない。本書は、稀代の政治学者、神島二郎のオマージュでもある。

                  | 佐々木寛 | - | 01:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  希望の政治学読本 
                  0

                     

                    バーニー・サンダース『バーニー・サンダース自伝』(大月書店) 2,300

                     

                    「新しい政治」はどのように生まれるか

                     

                     金と権力にまみれた政治や、その政治を生業とする政治家たちと私たちはどのようにつき合っていけばいいのか。おぞましい政治の世界は、遠くから観戦して面白がるのがせいぜいで、自分はなるべく関わらないように生きるのが賢明かもしれない。だが、そのように自分は政治から自由であると思っている人ほど、実はすでに政治にどっぷりと飲み込まれ、権力に利用されているかもしれない。自分の平穏な生活を本当に政治の禍(わざわい)から守るためには、逆に普段から政治と向き合い、これに働きかけていく必要がある。

                     周知の通り、本書の著者は、先のアメリカ大統領民主党予備選挙で「民主的社会主義」による「政治革命」を唱え、全米に一大旋風を巻き起こした政治家である。最終的にはヒラリー・クリントン候補に道を譲ったものの、彼は「トップの1%が下から90%より多くの富を所有している」格差社会アメリカの現状を告発し、富裕層や大企業ではなく、労働者や中間層など大多数の国民のための政治を訴え、今でも熱狂的な支持を得ている。

                     彼自身、自らを「ホワイトハウスのアウトサイダー」(本書の原題)と呼ぶように、その終始一貫したラジカルな政治姿勢によって、これまで常に少数派の道を余儀なくされてきた。しかし今のアメリカ社会では、大多数の国民自身が政治から排除され「アウトサイダー」となっており、彼の訴えは、むしろ現代民主主義の議論における主流の位置を占めるようになった。もはや「右」や「左」などではない。彼にとって重要なのは、何よりも人々の生活の現実であり、弱者や少数者と共に希望が語れる社会の実現である。そしてその理念は、日常的かつ粘り強い政治参加を通じてはじめて現実のものとなる。

                     政治家の自伝は、概して自慢話か自己正当化の手段なので、引き算して読まなければならない。しかし本書は、これからの「新しい政治」がどのように生まれるのかについても私たちに教えてくれる。

                    | 佐々木寛 | - | 01:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    希望の政治学読本 
                    0

                      『日刊ゲンダイ』の書評連載、第6回目まではブログに掲載しましたが、7回目〜も載せておきます。

                       

                      ジーン・シャープ『市民力による防衛』(法政大学出版局) 3800

                       

                       

                      「おまかせ安全保障」からの脱却

                       

                       よく、「北朝鮮や中国が日本に攻めてきたらどうする!」と問われることがある。どうなるかよく考えてみる。もし何もしなければ、占領されるかもしれない。けれども占領後、人口1億人以上の先進国をどのように支配するのか。侵略者はまず、複雑な官僚機構を動かすために、日本語をしっかりと勉強しなければならないだろう。そして何より、自分たちの支配が1億人以上の国民にごく正当なものであることを信じ込ませなければならない。

                       冗談のような思考実験であるが、現代の安全保障問題のある本質を浮き彫りにしている。「敵」の攻撃を「抑止」するための力の中で、軍事力は依然として大きな役割をもつのかもしれないが、それ以外にもたくさんの政治的・社会的「抑止力」が存在する。本書は豊かな歴史的経験の中から、市民の非暴力的な力が、社会にとっての不当な脅威を十分にはねかえす可能性があるという事実を導き出す。注目すべきは、この脅威とは、何も外国には限らないということである。歴史的によく考えれば当然だが、クーデターなどによる独裁者や自国軍、警察もまた、私たちの脅威となりうるからだ。

                       著者によれば、準備され訓練された「大規模な非協力と大規模な公然たる拒否」によって、支配権力を「餓死」させることができる。たとえ一時的な弾圧があったとしても、それを新たな連帯や抵抗の力とする「政治的柔術」によって、逆手に取ることもできる。軍事力に頼らない市民による安全の実現は可能なのだ。

                       このような議論に、「現実を無視した甘い議論だ」、あるいはまったく逆に、「非暴力論にしてはあまりに戦略的だ」という反論がありうる。しかし本書を読めば、著者の構想が長期的にはいかに現実的なものであるかがわかるだろう。

                      | 佐々木寛 | - | 01:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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