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〜 <文明>の新しいかたちを求めて 〜 ( 佐々木寛のブログ )

Black “Lives” Matter!
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     「息ができない」と訴える人の首を、周りの市民が再三注意喚起しているにもかかわらず、警察官が長時間ひざで押さえ続けて死に追いやった映像は衝撃的でした。亡くなったジョージ・フロイドさんは、どんなに苦しかったでしょう…。想像に余りあります。一方、押さえつけていた警察官はどんな気持ちだったのでしょうか。いつものことなので「これが当たり前だ」と思っていたのか、「黒人だから多少手荒でもいい」と思っていたのか、あるいは「ひざをゆるめたらこちらがやられる」と恐怖にとらわれていたのか。あるいは、新米警官の前で妥協を許さぬ「模範的な」取り押さえ方を見せようと張り切っていたのか、あるいは、これ幸いと、普段から軽蔑し、憎んでいる黒人を痛めつけようと思ったのか…。私は、あの警察官の当時の偽らざる心情がききたいと思っています。

     

     さて、その後全米を駆け巡った「Black Lives Matter !」(黒人の命も大切だ!)というかけ声は、よく考えるとごく当たり前の内容です。しかし、そんなごく当たり前のことでも、あえて大勢の市民が路上で叫ばなければならないという現在のアメリカの状況があるということです。今のアメリカ社会は、多くの人々がもう我慢ができないほどに、アンフェア(不公平)な社会になってしまった。その危機感が、とくに新型コロナの危機と相まって高まっているように見えます。

     

     そういえば、「息ができない」ことで死に至るというのは、新型コロナウイルスによる肺炎でも同じです。しかも、黒人の死亡率は白人の約2倍だといいます。人間一般に対しては、ある意味平等に襲いかかるウイルスでも、アメリカではより多くの黒人に死をもたらすというのは、もちろん社会構造にゆがみがあるからです。コロナ危機の前から、黒人の命は白人より軽かった。しかしコロナ危機によってその「現実」がふたたび顕在化したということです。その意味で、国家権力である警察官が黒人を窒息死させることと、ウイルスが黒人の呼吸を止めることと、アメリカではずいぶん重なって見えてしまいます。

     

     今回、「Black Lives Matter !」と叫ぶ市民の中には、多くの白人の市民や若者たちが含まれているといいます。人種を超えた幅広い共感が感じられます。もちろん、公民権運動以来、実は何も変えてこられなかったという白人社会の強い反省もあるでしょう。しかし、今回の「Black Lives Matter !」という呼びかけには、単に黒人の人権を回復するという以上に、実は「All Lives Matter!」(すべての命は重要だ!)というニュアンスが、その奥底に存在しているように感じます。つまり、「Black Lives Matter !」というのは、「Lives(命)」ということばが入っていることに意味がある。単に「権利」ではなく、そこには「生命」の次元がある。「すべての生命は平等に扱われるべきだ」という訴えが、この運動の広がりの背景にあるように思います。(※しかし残念ながら「All Lives…」 の呼びかけは、今、運動の現場で「Black Lives」相対化するために政治利用されている向きもあるようです。言うまでもなく何よりもまず、これまで虐げられてきた「Black Lives」に向き合わなければなりません。そのいわば階級的な向き合い(闘争)の果てに「生きとし生けるもの=All Lives」の論理が生まれ、「Black Lives」にさらに普遍的な力が与えられます。

     

     そして、この“生命次元における連帯感”が、まさにコロナ危機の中で人々の心の中に密かに生成していたと考えることも難しくはないでしょう。「メキシコ国境に壁をつくる」と宣言して大統領になったトランプは、今回の市民によるデモを実力で追い払った後、軍の幹部を連れ立って、聖書を片手にテレビに映り、国民を味方につけようとしました。終始一貫、イメージの世界で<敵>をつくり、人々の<恐怖>を利用して権力を掌握する手法です(※これは、ニクソンもレーガンもブッシュもやってきたアメリカ大統領の常套手段です)。しかし、ウイルスの脅威が私たちに示した<生命のリアリティ>は、トランプのこのような「政治的詐術」を一挙に陳腐化するでしょう。トランプ政権も(そしてそれに類似する日本を含む多くの右派政権も)、ウイルスの影響力を過小評価し、対応を間違え、結果的に大きく支持率を下げることになりましたが、それは、彼らの政治がもともと<生命>の論理に基づいていなかったからです。

     

     「Black Lives Matter !」。それは、「All Lives Matter!」につながっています。「生きとし生けるものはすべて大切だ!」という思想は、もちろん地球環境問題や植民地主義問題などのより根源的な問題への取り組みにも連動する可能性を秘めています。その意味で、2020年は、後に人類史の大きな転換の年であったと言われるようになるかもしれません。

     

     

    | 佐々木寛 | - | 01:52 | comments(0) | - | - | - |
    「新しい生活様式」について
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       先日、この国の首相が会見して、「新しい生活様式を取り戻す」という、日本語として少々意味不明のフレーズを使っていました。「新しい」のであれば、過去に存在していなかったわけで、「取り戻す」というのはおかしいわけですが、この国の首相はもとよりすっかり原稿を読むだけなので、きっとスピーチライターによる間違いか、あるいは、お得意の「印象操作」を狙った言い回しだったのかもしれません。新しい行動制限を国民に強いるというのはそれだけでは印象が悪いので、あたかもかつての生活が取り戻せるかのように印象づけたかったのかもしれません。しかしだとすれば、またしても国民をずいぶんと馬鹿にしたものです。

       

       さて、厚生労働省のホームページを見てみると、「新しい生活様式」とは、「まめに手洗い」とか、「対面での打ち合わせは換気とマスク」とか、すでに私たちが実践しているものばかりで、正直「新味」はありません。まるで小学校の生活指導の先生が児童に行う「生活指導」のようです。これを「新しい生活様式」というのなら、これを「取り戻す」というのが、さらにわからなくなります。

       

       このブログにも以前少し書きましたが、今回の新型コロナの災難は、その原因を冷静に探ってみるなら、単なる「天災」としてではなく、限りなく「人災」に近いものとして考えるべきだと思います。開発優先の近代文明が臨界点に近いことを、地球そのものが警告しているのではないか。そしてもしそうだとすれば、今回の災難は、「3・11」の時と同様に、「文明災」としても位置づけられるべきではないか、ということです。

       

       しかしその場合、私たちは、さらに恐ろしいことも想定しておかなければならなくなるでしょう。それは、今回のコロナ被害が単なるプロローグ(序章)にすぎないのではないか、ということです。今回の悪夢が過ぎ去れば、私たちはその夢から覚め、また以前のようにこの地上を自由に闊歩できるのではないかと誰もが願っています。けれども〈現実〉は、今回よりもさらに凶暴なウイルスが次々と登場するような世界が私たちを待ち構えているかもしれません。杞憂になればいいのですが、冷静に考えると、この悪い方のシナリオに現実味があります。

       

       そこで、もう一度私たちが将来営むべき「新しい生活様式」(新しいライフスタイル)を考えてみましょう。生活における持続可能な「安全」は、もっとも優先度の高い価値になるでしょう。またそのために、地球上の生態系(エコシステム)の均衡を破壊するような行為を、私たちはこれまで以上に慎まなければならなくなるでしょう。今もっとも幅を利かせている「自分だけが良ければいい」、「〇〇ファースト」などという愚かなイデオロギーも否定されなければなりません。また、「今だけよければ」というのもダメです。そのような資本主義的な「合理性」を追求した結果が、今私たちが直面している「共滅」という危機だからです。

       

       また、新しい生活における「安全」は、単に国家や政府に「おまかせ」するだけでは実現しません。ましてや国家が引き起こす戦争や軍事力という手段はピント外れで、次第に役に立たないものになるでしょう。私たちが「生き残る」ためには、外敵をつくって戦っている場合ではなく、とにかく今後は、あらゆる境界を越えた連携と連帯が必要だからです。「新しい生活様式」では、自然環境だけでなく、隣人にもごく優しくあるための心の習慣やトレーニングが必要になります。日々の生活の中から、差別や偏見を無くし、非暴力的にものごとを解決するためのさまざまな実践が蓄積される必要があります。地域の自治に基づく様々な日常的実践から「安全」を構築することができれば、政府による非常事態宣言や戒厳令、あるいは管理や監視がなくても十分に(あるいはむしろより有効に)疫病をはじめとする現代的な危機に対抗することができるようになります。

       

       このように、今回のコロナの経験をしっかりと踏まえた「新しい生活様式」とは、革命的な変化を含む概念であるはずです。私たちが経験しているのは、たとえば、対面で実際に会うことができなくなった人間たちがつくる社会で、本当に「人間的」な生活ができるのかといった根本的な問題に他なりません。テレワークやオンライン会議という形式は、確かに「新しい生活様式」の一例ですが、あくまでもウイルス問題への表層的な対応の一例にすぎません。今後、私たちが人間同士のコミュニケーションをどのように構築していくべきなのかという広大な課題は、依然として残ったままです。

       

       「新しい生活様式」の定義を、今の政府に「おまかせ」することはできません。残念ながら今の政府は、大切なことばを次々と無力化することだけには長けているようです。「新しい生活様式」は、まさにこれからの私たちの包括的な実践によって構築されなければなりません。

       

       

      | 佐々木寛 | - | 03:01 | comments(0) | - | - | - |
      「とりま」世代
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        私が普段接する大学の学生たちが、ちょうど自分の子どもたちと同じ年齢になりました。それで一教師としても、一父親としても、自分の次の世代について具体的に考える機会が多くあります。

         

        20数年教師をしながら、「世代論」は、もうあまり妥当しないのではないかという気がしていますが、ただ同時代に生きるというだけで、その時代が刻んだ共通の気風は多少はあるかなとも思います。それに、講演などで多くの方から「今の学生や若者はなぜ政治に無関心なのですか?」という質問を多く受けることもあり、自分の子どもも含めて、その内に秘める根源的な絶望感をどう考えればいいのか、常に気になっていました。

         

        あくまでもあてずっぽうなのですが、息子や娘の世代を表す一つの表現が、「とりま」だと思っています。「とりま」は、「とりあえず、まあ」の意味です。

         

        彼らが一度として景気の良い社会を見た事がないのは、1990年代以降に生まれた他の世代と共通しています。世界では戦争やテロのニュースばかり。その暴力の気配は、じわじわと日本社会にも忍び込みました。しかし問題は、根源的な矛盾や社会問題が、表面は明るい消費社会で覆い隠され、先送りされてきたということにありました。市民社会は明るいまま、内側から腐っていくというイメージです。

         

        学校では、大人たちが次の時代についての確たる自信もなく、「とりま」受験勉強に勝ち抜き、日本の既存のシステムで無難に生きていくための適応術を子どもたちに教えます。大人たちが生きている確たる自信も実感ももないのですから、その子どもたちの「自己肯定感」が高くなるわけがありません。まさに、「すべてが揃っているけど、希望だけがない国」。

         

        無責任なエセ知識人が、「物語の終焉」や「歴史の終焉」などと称する時代の中で、このじわじわと没落していく日本社会をもっとも敏感に感得してきたのが、今の若者たちであることは言うまでもありません。まさに堕ちてゆくしかない中で、「とりま」生きていくことが「生きる」意味になります。

         

        「とりま」と並んで、私の子どもの世代が多用したことばのひとつが、「病む」、あるいは「メンヘラ」という言葉です。「メンヘラ」は、「メンタルヘルス」の略だそうです。こんな時代ですから、心を病むほうが健全なのかもしれませんが、個々人の鬱々とした絶望感や不安感は、すべて「自己責任」だと信じ込まされます。問題は、社会の問題なのではなく、あくまでもその個人の問題、特にその個人の適応能力の問題にほかなりません。この世界は、他者に弱みを見せれば即、「カースト」における「下層民」行きなので、普段かかえる私的で重たい相談は、たいがい誰にも話せず、一人で抱え込むのが流儀です。暴力はどんどん内側に向かっていきます。

         

        「とりま」勉強し、「とりま」大学に行き、「とりま」バイトし、「とりま」単位をとって卒業し、「とりま」就職する。満たされない承認欲求は、「とりま」SNSの「いいね」で解消する。

         

        いわば、社会や歴史のリアリティから切断され、ただ現在起動するシステムだけに連結された〈生〉。まるで強制収容所の死にゆく囚人のような人生。

         

        このように仮に考えた場合、現在世界を覆っている新型コロナウイルスの脅威はどう考えられるでしょうか。少なくとも、この歴史的な災厄は、若者を取り囲んできた「全体主義」システムに多少なりとも亀裂を生み出しているがゆえに、ひとつの契機であると言えるのかもしれません。システムのお約束を守り、徹頭徹尾社会の消費者であり続けることでは、真に幸せな人生などはとうてい不可能である、と気がついたときどうなるか。

         

        けれども、賢明な若者たちは、動物的にそんなことはもうとっくにわかっているのかもしれません。わかりながらも、「とりま」今日を生きているのだと思います。この絶望の深度について、まずは理解する必要があるのかもしれません。

         

        | 佐々木寛 | - | 19:58 | comments(1) | - | - | - |
        ウイルスから見てみる
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          約3か月ぶりの投稿です。フィリピンを訪れ、その後3月頭にデンマークに再び訪れた後、新型コロナウイルスの猛威で、もうとうてい海外などには行けない状況になりました。海外どころか、東京にも行けません。あっという間です。

           

          このブログは、「3・11」の衝撃から始まったのですが、今回の世界中を駆け巡っている疫病の衝撃は、それに匹敵するものです。まるで毎日映画のディストピア作品を観ているようですが、幸いにも、原則一日中家に居なければならないので、雑事を免れてゆっくり考える時間もあったりします。

           

          「3・11」も新型コロナウイルスも、文明論的な問いを、人類につきつけています。私は、この文明論的な問いについて、人類は今、全力で答えを探さなければならないと考えています。どちらも、私たちの〈安全〉とは何か、という根源的な問題を提起していますし、舞台が〈地球(惑星)〉レベルであることと、専門家たちの果たす政治的機能が顕著であること、また災厄に対するあらゆるレベルでの〈政治の機能不全〉も共通したテーマです。

           

          ただ今回は、ウイルスという、この生物か無生物かわからない存在について考えてみました。彼ら(と呼びます)は、ひたすら自己のDNAを複製すべく、他の「生物」に寄生するわけですが、私にとってそれは、彼らが「生きようとするもの」=「生物」である証である気がしてなりません。もちろん、生物学的にというより、詩的にです。脂肪とDNAだけというもっともシンプルな形を選択し、重要な事以外はすべて切り捨てた「生きざま」にはとても迫力があり、いわばバロック化した生命体である人間にはそれだけで脅威である気がします。

           

          さて、大切なことは、彼らが、取りついた生命体をあまりにも傷つけると、自らも死んでしまうという事実です。人間が死ねば、他に引っ越さない限り、ウイルスも死ぬ。なので、おそらく「生かさず、殺さず」というのが一番良いわけです。しかし今回の新型コロナウイルスが世界中を席巻している理由は、その恐るべき感染力にあります。ある人には無害(かのように見せて)、しかしある人には個体を死に追いやるほど猛毒である。またたとえ個体が死んでも、他の個体に容易に拡散して生きることができるというその戦略は、本当に洗練されています。

           

          彼らは人間にとっては、本当に厄介です。けれども彼らは、私たちと同じか、もしかするとそれ以上にこの世界で「生き残る」ために必死なのかもしれません。そして、ふと冷静になると、ウイルスを毛嫌いする私たち人間もまた、たとえば母なる〈地球(惑星)〉にとっては、あるいはウイルスのような存在なのかもしれないと、思ったりします。私たちはこの〈地球(惑星)〉に寄生し、そこからエネルギーを得て日々生きている。しかし、私たちが「生きる」のに必死なあまり、この地球を壊してしまうことで、実は私たち自身が生きていけなくなる。これは、ウイルスと人間との関係と、とてもよく似ていると思います。

           

          先ほど、ウイルスは、生物でも無生物でもない、と書きましたが、本当は、「無生物」=〈地球(惑星)〉と私たち「生物」の媒介役(メディア)として捉えた方が真実に近いのではないか。そしてもしそうだとすれば、今回の災厄も、あるいは「地球からのメッセージ」として捉えることもできるかもしれません。

           

          | 佐々木寛 | - | 01:18 | comments(0) | - | - | - |
          フィリピン サンチャゴ要塞
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            またもや久しぶりの投稿です。原稿執筆や各種試験などをかいくぐり、ゼミの学生諸君と常夏のフィリピンを訪れました。

            実は、フィリピンは初めてでした。ゼミ生にフィリピン出身のお母さんをもつ学生がいて、彼女がきっかけをつくってくれたのでした。彼女の実家で、レチョン(豚の丸焼き)をご馳走になったり、とても楽しい旅行になりましたが、このブログでは「サンチャゴ要塞(Fort Santiago)」について書き記しておきます。

             

             

            言うまでもなく、フィリピンは、スペイン、アメリカ、日本に植民地化されてきたわけですが、この要塞は、いずれの国にも使用された要塞です。スペインの支配は、333年間にも及びました。写真のモニュメントは、日本軍に殺害された多くのフィリピンの人たちを悼むものです。日本の支配は3年ですが、本当に残酷なやり方で多くのフィリピン人を殺害しました。

             

             

            そしてここは、フィリピンの革命家、ホセ・リサールがスペイン軍に幽閉され、殺害された場所でもあります。

            それで、ホセ・リサールの記念館も設置されていました。

             

             

             

            ここは、大国に翻弄されたフィリピンの歴史、そして「植民地主義」とは何か、を考えるためのとても重要な場所です。一緒に訪れた写真の学生は、スペイン人、フィリピン人、日本人のいずれにもルーツをもっており、ここで整理しきれない感情を抱えたようです。彼女は、民族差別と植民地主義の関係についてをテーマとした卒業論文を完成させました。彼女のような、いわば「境界人」こそ、来るべき新しい社会を生み出す可能性を秘めているのだと思います。若い世代が、歴史と出会い、新しい時代を切り拓いていく…。若い世代を信じたいと思います。

             

             

             

             

            どんどんと、いわば「要塞化(fortification)」する現在の世界をいかに乗り越え、新しい「共生」の世界を創りだすことができるのか。再度、この最重要の課題を考えさせられました。

             

             

             

             

             

            | 佐々木寛 | - | 11:35 | comments(0) | - | - | - |
            〈文明〉転換への挑戦ーーエネルギー・デモクラシーの論理と実践
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              雑誌『世界』(岩波書店)2020年1月号に、拙論「〈文明〉転換への挑戦――エネルギー・デモクラシーの論理と実践」が掲載されました。キーワードは、「植民地主義(コロニアリズム)」です。『朝日新聞』の「論壇時評」で、津田大介さんにも紹介していただきましたが、できるだけ多くの人たちに読んでほしいと思います。

               

               

              | 佐々木寛 | - | 08:44 | comments(0) | - | - | - |
              オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』
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                ゼミナールで、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』を再読しています。

                このディストピア小説はあまりに有名ですが、読み返すと改めて多くの発見があります。

                 

                階級、性、死、生命工学、労働、道徳、宗教、家族、科学、芸術、歴史などなど、<文明>を構成するあらゆる要素が、根底的に再検討されています。1932年発表ですから、ジョージ・オーウェルの『1984年』の16年前に書かれているにもかかわらず、むしろ今読んだ時に新しいと感じる点がたくさんあります。もちろん、あらゆるこの手の近未来小説にあるように、この90年の間に通信技術などハクスリーの予想以上の進展を見せたものもあるので、ストーリーには時代遅れに感じる部分もあります。けれども、それ以外は恐ろしいほど当時から見通されていたものがあったのだと感心します。

                 

                舞台は、「9年戦争」で炭疽菌がばらまかれた後の世界。これ自体がリアリティがありますが、「平和」と「安定」を実現するために、人間の真の自由が封じられた社会です。人間の激しい感情を封じ込めるために、家族や恋愛、自然への愛好、葛藤や病苦は廃絶されています。とくにシェークスピアが代表的な禁書であることが特徴的です。階級ごとにふさわしい能力を備えるよう、工場で計画的に人間がつくられていきます。人間はもはや母親から生まれるのではなく(それは「卑猥」なこと)、瓶から生まれるので、出産ではなく、「出瓶」になります。この「すばらしい新世界」では、かつてヒッピー(対抗文化)の象徴だった麻薬とセックスは、むしろ体制を温存させるための重要な装置になっています。セックス、スポーツ、スクリーン(テレビ・映画)、そしてソーマと呼ばれる副作用のない麻薬という、いわばこの“4S”が人々のお慰(なぐさ)みとして完全供給され、人々は心から満足し、体制は永続的に安定しています。

                 

                <文明>とは、清潔(殺菌)である。<文明>とは、人間の一切の「苦痛」や「不幸」を取り除くプロジェクト…。

                かつて藤田省三は、現代社会を「安楽の全体主義」と批判しましたが、そもそも<文明>が内在させている論理、その行き着く先とは、全体主義なのではないか。

                 

                階級格差や明白な人種主義はあっても、人々はそれを当然のこととして受け入れ、満足しています。大切なことは「真実(リアル)」ではありません。徹頭徹尾「消費者」にすぎない大衆が、システムから与えられるのは、カストマイズされた幻影と慰みに他なりません。「みんながみんなのもの(恋愛なきセックス)」、「きょう楽しめることを明日に延ばすな」、「歴史などたわごとだ」というセリフは、「ポスト真実」と呼ばれる現代世界を、約1世紀前から予言していたかのようです。

                 

                ここに登場する「野人」こそ、「すばらしい新世界」への最大の挑戦者なのですが、その救いようのない結末は、一読者として抵抗を感じながらも、受け入れざるをえません。ハクスレーもきっとそう考えたように、<文明>の論理的な帰結は、おそらくそういうことだからです。

                 

                <文明>の新しいかたちを求めて。私たちは、人間の「自由」を、その陰の部分も含めて、<文明>にどう位置づけるのかについて原理的につきつめて考えることを避けて通れません。最後に野人は、「僕は不幸になる権利を要求する」と言っています。また<文明>から逃れた野人が、最後にふと歌を歌い出すことにも重要な意味があると思います。この本は依然として、汲めど尽きせぬ問題提起を発し続けています。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                | 佐々木寛 | - | 16:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                次の政権交代への準備――新潟参院選で生まれたひとつの可能性
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                  前回の投稿が2018年8月ですから、なんと、1年以上、ブログの更新ができませんでした。

                  年々忙しさが増す中、Facebook や Twitter で発信するのがせいぜいで、ゆっくり自宅のPCの前で、つれづれなるままに文章をつづる余裕と勤勉さがなかったわけです。この間、論文やエッセイ、インタビュー記事、講演など、本当にたくさんこなしたのですが、やった後にそれをまとめることもできませんでした。

                   

                  ――<文明>の新しいかたちを求めて。―― しかしこの1年間も、このテーマでいろいろと考えてきました。

                   

                  私が仲間と共に進めている「おらってにいがた市民エネルギー協議会」は、最近、念願の小水力発電にも挑戦しようとしています。また、「東アジア自然エネルギー共同体」構想も浮上しています。これらのテーマは私にとって最重要課題なのですが、また目途が立ったころに改めて論述したいと思います。今年一番大きかったできごとは、参議院選挙で再び「市民と野党統一候補」(打越さく良さん)の擁立を実現し、勝利できたことです。そしてさらに重要なのは、その際、市民連合@新潟がハブとなって、連合から共産党に至るまでのすべての立憲野党勢力が合意した「共通政策」をつくりあげることができたということです。

                   

                  東京の市民連合では、13項目に渡って5野党すべてが合意したのですが、新潟はそれよりももっと踏み込んだ詳細な内容の政策をつくることができました。下に貼り付けておきます。

                   

                  安倍政権は、「他に選択肢が見当たらない」という理由だけで、桂太郎内閣を抜いて憲政史上最長の政権になろうとしています。「野党がだらしない」というセリフも、もう聞き飽きるほど聞きました。ひたすら「党勢拡大」を優先させる今の野党のリーダーたちに任せておいて、政権交代のための一致協力した一大政治勢力が生み出される気もしません。

                   

                  「次にどんな日本にしたいのか…。」今はそれを市民レベルでしっかり考えていく時代を迎えていると思います。

                  政党組織ではなく、日本中の市民から「共通政策」を構築していく。今回の新潟の共通政策は、そのほんのきっかけに寄与することができればと願っています。

                   

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                  真に豊かな生活をとりもどす。――新潟の輝く未来のために

                   

                  私は、これまでの弁護士活動を通じて、DV被害者や児童虐待の現実を目の当たりにしてきました。社会の矛盾は常に、もっとも弱い人たちに襲いかかります。虐待されながらも、親との思い出を大切に心にしまって何とか生き延びようとする子どもたちや、社会の片隅で声を出せずにいる無数の人たちを支援する中で、次第に私は、そういった社会のはざまに集中する暴力が、貧困や格差など、より大きな社会の歪みに起因することに気がつきました。

                  一方で、使い切れないお金を手にした富裕層や、空前の利益を得ているグローバル企業、膨大な食品ロスや廃棄物を出しながら安さばかりを求める消費都市が存在します。「競争」や「自己責任」の掛け声だけが響き渡り、「今だけ、カネだけ、自分だけ」の軽薄な気風が社会の一端を支配しつつあります。

                  他方で、人口が減って希望を持てない地方や、衰退の続く農村の実情はどうでしょう。体を引きずるように働き、爪に火を灯すような生活をしても、明日が見えない人たち。学費が工面できず進学をあきらめる者。無秩序な競争の中で原価に利益を乗せることさえ許されない製造業者。後継者探しさえままならない中小企業や農家の人々。政府の「地方創生」の掛け声は、ここ新潟でも空しく響きます。

                  これまで、〈中央〉や一部の権力者だけが優遇される政治があまりにも長く続き、置きざりになった〈地方〉や弱い立場の人々は、政治そのものに絶望しつつあります。私たちは本当に、〈中央〉や権力者を忖度(そんたく)し、そのおこぼれをあずかる以外に、生きる道はないのでしょうか。私はそうは思いません。私が政治を通じて実現したいのは、これまで発する声が届かなかった地域や人々が、自分の足で立ち、自信をもって生きるための新たな希望をつくりだすことです。

                  人間らしい労働、貧困や暴力に脅かされない普通の暮らし、おだやかに安心して過ごすことのできる老後、そして子どもたちが笑っていられる未来。そんな誰もが望む「真に豊かな生活」をとりもどさなければなりません。

                  また新潟は、世界最大級の原発を抱え、長らく賛成派と反対派の分断を余儀なくされてきました。原発を巡るリスクと対立だけが新潟に残り、つくり出された恩恵を首都圏が消費するという根本的な矛盾に苛(さいな)まれてきました。福島の原発事故を経て県民の大多数が原発ゼロを求めている今、新エネルギーの可能性を大きく活かすことで両者の対立に終止符を打ち、共に笑い合える未来をつくる。私は、ここ新潟からそれを実現したいと考えています。さらに新潟は、どこよりも“独立自尊”の伝統を湛(たた)えた地域です。今から約100年前、理不尽と不平等に立ち上がった新潟の小作農の精神を若いころ書籍で知りました。それは私が実現したいと思う政治の道しるべです。私、うち越さくらは、ここ新潟に骨を埋(うず)め、政治に新しい希望をもたらすことで、その先人たちの列に加わってまいります。

                  以下、「真に豊かな生活をとりもどす」ための具体的な方策です。

                   

                   

                  |ひとり、取り残さない。――格差と差別のない社会へ

                   

                  • 子どもの貧困や教育格差をなくすために、子育て施策の充実や保育士の待遇改善、高校授業料の完全無償化学力が伴わなくても親に頼れない子どもが利用できる給付型奨学金制度の確立、就学援助の充実や給食の無償化など、次世代に投資する政策を大胆に進めます。
                  • 若者が希望の持てる将来像を描けるよう、目標を据えて確実に最低賃金を引上げていくなど、景気対策の柱となる実質賃金の向上を実現します。また、同一価値労働同一賃金の趣旨にのっとり、非正規労働者等に対する差別的待遇の転換を目指します。
                  • 子育て世帯や若者が希望を持って安心して生活できるよう公的住宅費補助制度の充実や、若い夫婦などに特化した公営住宅の整備等を通じて、人口減少や少子化の是正を図ります。
                  • 女性が真に活躍できる社会を実現するため選択的夫婦別姓を実現し、男女における賃金格差を解消すると共に、性暴力の禁止と被害者支援に向けた法整備を行います。
                  • 共に支え合う社会」を目指し、多様性を認める観点からLGBTに対するものをはじめ、すべての差別と社会の分断を許しません。さらに身体や心に障がいをもつ方々や日本で暮らす外国人に対して教育の機会や雇用、生活の安心を保障する枠組みを整備します。
                  • あらゆる差別を禁止する法令や、手話言語法など社会の多様性を守るための法整備をすすめると共に、ヘイトスピーチ対策への取り組みを強化します。
                  • 待機児童を解消し、病児保育、休日保育の充実などすべての子どもたちに保育・教育の機会を保障します。また、重労働に見合わぬ低賃金といわれる保育士等の処遇改善も同時に進めます
                  • 虐待から子どもを守るために、公費による子どもの代理人制度を実現し、児童精神科医や児童心理の専門家を増員します。子どものオンブズマン制度を実現し、権利救済の仕組みを作ります。
                  • 虐待やDVを繰り返さないための公的な「再発防止(加害者更生)プログラム」などの法整備を進めます。
                  • 社会全体ですべての子どもの育ちを支援し、子どもの貧困、特に親から引き継がれる貧困の連鎖を断ち切ります。フードバンクや子ども食堂といった地域の取り組みに着目した子ども貧困対策推進法の拡充を目指し、その運用に貧困改善に向けた数値目標を設定します。

                   

                  地域経済を躍進させる。――持続可能で活力ある新潟へ

                   

                  • 近年、農村地域から人が減り、離農も続き、否応なく農地の集約化と大規模化が行われていますが、同時に耕作の放棄も増加しています。そんな中で進行するTPP11や日欧EPAなど過度な規制緩和・市場化推進の動きに反対します。
                  • 農地が有する防災機能等を維持し、担い手の大部分となる兼業農家の経営を安定させるなど、わが国農業の基礎を支える政策である「農業者戸別所得補償制度」の復活を目指します。さらに地域特性にあった多様な農業の展開にむけた支援、多面的機能に着目した直接払いなどを通じて、やる気ある農業者を育成します。
                  • 国土・自然環境の保全、技術や文化を継承していくためには綿々と続いてきた伝統的な農山漁村集落の維持発展が不可欠です。巨大消費地である東京や対岸の東アジア諸国と産地である新潟県の交流を促進することとにより、農山漁村のコミュニティを維持し特色ある生産を実現します。
                  • 「種子」を守っていくことは、我が国の食料主権と消費者の安心安全及び国民共有の財産を守ることです。2018年に政府が廃止した「主要農産物種子法」の復活を目指します。
                  • 急進的な農協改革に反対し、地域と生産者をつなぐ協同組合としてのJAグループの存在意義を十分踏まえ、社会的な役割に応じた支援を行っていきます。
                  • 森林環境税の新設に合わせ、林道、作道の整備や木材産業との連携強化など林業分野に対する集中的施策の展開によって新潟の山を守り、林業従事者の確保と所得の向上を図ります。
                  • 地域住民が、里山林の保全管理に関わり、森林・山村を観光資源として活用しつつ環境教育・体験活動の場とし、消費地である都市との交流を進める体制を整備します。
                  • 水産業関係者自らが考え合意する「浜の活力再生プラン」の策定と実行を支援し、資源管理、生産基盤整備、流通・加工対策、魚価対策など水産業の課題に対応します。都市と漁村の交流を促し、活力ある集落を新潟各地に創出すると共に、漁業協同組合の機能強化を促進します。
                  • 太陽光・小水力・風力発電、さらには新規ESCO事業や新世代地域熱供給事業など、新潟の潜在力を活かした再生可能エネルギー事業の複合的展開によって、新潟に多くの雇用を生み出します。
                  • 産業分野の付加価値向上や産学連携、イノベーションの導入や起業支援など、本県経済の発展に欠かせない施策に対する国の関与を高めます。地域中小企業の人材確保のため、学生や若者を対象とした公的な住宅費補助制度の実現を目指します。
                  • 生活道路や用排水路、中小河川といった生活に欠かせない公共財の日常的な補修や修繕事業を中心とした公共事業を、地域中小企業をパートナーとしてすすめ、地元建設業の経営安定と活性化を図ります。
                  • 本年10月に予定されている消費税の引き上げに反対し、5%ポイント還元といった金持ち優遇で場当たり的な対策の撤回を目指します。さらに所得税の累進課税や給付付き税額控除の導入など総合的に税制を見直すことで、税の不公平感を解消し、社会福祉のための財源確保を図ります。

                   

                  K楜い“原発ゼロ”に向き合う。―再生可能エネルギーによる新しい社会像へ

                   

                  • 国による原発政策が全く見えません。将来的に原発を続けるのか、廃止するかの議論すらされていません。原発ゼロはスローガンではなくリアリズムです。国における議論を通じて原発がなくとも日本経済が立ち行く未来を示します。
                  • 原発ゼロに向け、再生可能エネルギーや省エネ技術の開発を進め、立地地域対策や使用済み核燃料の処分問題を含めた具体的な行程づくりを行います。
                  • 農山漁村や山林をはじめとして、新潟には再生可能エネルギーの生産に好適な条件が多くあります。第一次産業と再生可能エネルギーの融合によって、エネルギーの地産地消、さらには地域でお金が回る「地域分散型ネットワーク社会」の実現を目指します。
                  • 新潟県が進める「三つの検証」に基づき、安全で具体的な避難計画の策定支援や、迅速な被災者支援の法制化など国による関与が欠かせない分野を明らかにし、実行します。
                  • 柏崎刈羽原発の再稼働は認められる現状にありません。耐用年数を過ぎた古い原子炉の廃炉計画の策定と先進的な技術の蓄積によって立地地域を再生させ、県経済を活性化させます。

                   

                  な襪蕕靴琉多粥Π汰瓦魍諒櫃垢襦――セーフティ・ネット社会へ

                   

                  • 独居の高齢者やひとり親世帯など経済的、社会的に孤立している人に対する生活支援を拡充し、社会的な見守りのネットワークを拡充します。
                  • 医師、看護師らの地域偏在や診療科の偏在を解消し、国民健康保険料や医療費自己負担を抑制します。さらに医療・介護の現場で働く人々の処遇を改善することで、高齢者だけでなくあらゆる世代のセーフティ・ネットを強化します。
                  • 老後の安心の根幹である公的年金を持続可能なものとし、公正、平等で国民に信頼される制度につくり替えていきます。
                  • 予防医療の充実などにより健康寿命を延ばし、高齢者や子どもの居場所づくりやサークルや娯楽の提供等を通じて生きがいのある社会をつくります。
                  • 長時間労働を規制し、過労死ゼロを目指します。誰もが「ワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)」が可能な社会を実現し、望めば正社員になることのできる社会を目指します。
                  • 忖度発言の基となる、公共事業の選定過程を透明化し、社会資本の円滑な維持管理・更新を進めます。災害の未然防止といったハード対策と合わせて、地域のコミュニティを活かした防災力の強化を支援します
                  • 住民参加の下、コミュニティに欠かせない、きめの細かい地域公共交通を実現することにより、便利で安全な暮らしを実現します。
                  • 悪質な詐欺的行為から生活者を守るため、消費生活センターなど行政機関の機能強化と消費者保護に資する法体系整備に取り組みます。
                  • 国民の正しい政治判断の前提条件となる、嘘のない統計を目指します。森友学園・加計学園の疑惑などの徹底的な真相究明を行い、国家権力のメディアへの介入・規制に反対します。

                   

                  イ錣国の外交と防衛の未来像をしめす。――新時代の平和政策へ

                   

                  • 立憲主義に反する安保法の廃止を目指し、同法を前提とした現政権による憲法改定に反対し、平和主義を回復させます
                  • 我が国周辺の安全保障環境を直視し、専守防衛に徹した自衛力を着実に整備します。沖縄の民意を尊重し、辺野古の米軍新基地建設の強行には強く反対します。不平等極まる日米地位協定を見直し日米関係の再構築を目指します。
                  • 東アジアにおける平和と非核化の推進のために外交努力を尽くし、北朝鮮に対する経済制裁に加え、拉致事件解決に向けた対話の再開を目指します。
                  • 防衛、治安に資すると称して現政権が成立させた特定秘密保護法、共謀罪法などは国民の知る権利や内心の自由等の人権を脅かしており、早期の廃止を目指します。
                  • 非核三原則をこれからも堅持し、核兵器禁止条約の批准を目指します。国際協調主義に基づく人道支援等を-通じて世界各国との人的交流を拡充し、国民各層の相互理解を深めます。

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                  | 佐々木寛 | - | 00:49 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  「文明」の終着駅
                  0

                     先日故あって、大阪駅で長い時間を潰すことになったのですが、ものすごいコテコテの、究極の最新巨大駅ビルで過ごしているうちに、何故だかだんだんと息苦しくなって、しまいには怒りすらこみ上げてきたという経験をしました。営業妨害になってしまうのであまり言えませんが、そこはまるで、「あなたの〈生〉にとって必要なものは全てここにあります」と言わんばかりの空間設計。実際に何でもあります。店舗内に何個もカフェを内包する、迷うほど大きい売り場の某書店では、しかしながら、本や知識に対する愛着は微塵も感じられず、ただ商品としてライトアップされただけの「本」がインテリアとして並べられていただけでした。その店に満ち溢れるのは、「本はインテリアであり、消費物以上の何ものではない」、というメッセージです。本当に本を読めば、実際はそんな空間を根底から批判し、破壊したくなるはずなのに…。けれども本たちは、悲しくもその無知で乱暴な分類の陳列棚に行儀よく収まって、まるで近未来のアウシュヴィッツのようでした。

                     

                     この商品文化の海に溺れながら、本当に誰もが満足し、満ち足りた〈生〉を営んでいると思っているのか…。この楽しそうに歩いている(あるいは自分が楽しいと思い込もうと必死にそれを演じている)人々は、本当にこれを善きものとして肯定しているのか…。大阪駅は、「文明の終着駅」を直観できる場所かもしれません。そこにはすべてがあって、すべてが哀しい。親切なことに、屋上に「空中農園」まで用意されているこの空間で、果たして人類史は終点を迎えてしまうのか、それとも「人間」とはそれ以上の何ものなのか、そんな大げさなことも考えさせられました。

                     

                    | 佐々木寛 | - | 14:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    県知事選挙が終わって−−「市民と野党の共闘」ついて。
                    0

                      前の投稿がクリスマスイブですから、あれから半年以上が経ってしまいました。

                      4月からまた学部長になり、講演依頼もどんどん増えただけでなく、思いがけない選挙がありました。

                       

                      2016年の参院選、県知事選、2017年の衆院選と、新潟県では市民と野党の共闘が「3連勝」だったのですが、今年の県知事選には惜敗しました。たとえ1票差であっても、選挙は勝たなければなりません。今回の敗北は、もし勝っていれば、安倍政権の存続を防いだでしょうし、政府の原発推進にもストップをかけられたと思うので、本当にこの国のゆくえを暗くしてしまいました。悔やんでも悔やみきれません。

                       

                      しかしその一方で、敗北からは多くの「学び」がありました。これは勝ったときの比ではありません。

                      その一つ一つは、追々お伝えできると思いますが、今日は最大の「学び」についてです。

                       

                      市民と野党の共闘が上手く行く条件について。ひとりの政治学者として、自分の経験から、あえて誰にも遠慮せずに率直に結論を言えば、「政党や政治家主導では、市民と野党の共闘が成功することはきわめて難しい」、ということです。それは、今回の選挙で特定の誰彼がどうこうというのではなく、既存の政党や政治家が本来持っている、ある<限界>についての問題に他なりません。政党組織や政治家は、良かれ悪しかれ「権力の最大化」という、何よりも優先する行動原理があります。そういったアクターが繰り広げる権力ゲームの中では、時に相矛盾する利益関係にあるアクター同士の広範な共闘関係の構築は概して困難となります。そしてまた何よりも、この既存の政治権力ゲームが支配的になれば、一般市民の「参加」の程度はますます限定されてしまうという問題が生じることになります。

                       

                      これまで新潟において「市民と野党の共闘」が成功してきた背景には、他の地域と異なる一つの条件、つまり、市民勢力が候補者選定の段階から、終始選挙体制構築のイニシアチブをとってきた、という事実があるのではないか。まさにバッファーとしての「市民」が、相異なる野党同士を接着させてきたという事実にこそ、「野党共闘」の秘密があったのではないか、ということです。

                       

                      残念ながら、さまざまな事情から、今回の県知事選挙では、市民勢力は政党政治の従属変数になってしまっていたように思います。私も恥ずかしながら、それが市民政治の「進化」だと思っていました。いつまでもアマチュアが出張るのではなく、政治のプロが、プロの本来の仕事を始めて、それをアマチュア(市民)がバックアップする形で良いのではないか、それが政治本来のあり方なのかもしれない、とさえ思っていました。しかし、それは「進化」ではなく、歴史の針を逆に戻すことだったのかもしれません。

                       

                      いろいろと思うことあって、今月、「市民政治塾」を立ち上げることにしました。

                      詳細はまたお伝えできると思います。

                       

                       

                       

                       

                       

                      | 佐々木寛 | - | 01:32 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
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