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〜 <文明>の新しいかたちを求めて 〜 ( 佐々木寛のブログ )

「統合失調症」と文明
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    私の教え子に、統合失調症で苦しんでいて、大学も長い間休学中の学生がいます。

    波があるのですが、悪い時は、しばしば文脈がおかしな内容のメールも送ってきます。

    多くは、ひたすら謝ったり、自分を責めたり、何かの長文を提出しようとしたりする内容のものです。

    とても優秀な良い学生だったのですが、どうやら病気で大学に来られなくなったことをいつまでも引きずっているようで、何とも痛ましく思います。

    そういえば、かつての私の親友も、同じ病名の病気で、ずっと職場復帰を夢見ていたのですが、長年果たせず、その間、いつも職場でかつての夢を実現するといった内容の半ば「妄想」を語りつづけていました。記述が過去形なのは、その彼がすでにもうこの世にいないからです。若くして「事故」で亡くなりました。

    それでいつも思うのですが、彼らのおかしな内容のメッセージは、それ自体、この世界の常識とはあまりそぐわないものの、普通では気がつかない、何か大切な事を伝えようとしているのではないか…。

    あるいは、おかしいのは、もしかしたら、この世界のあり方の方かもしれない…。

    そう思う自分も、実は危いのか、本当は限りなく「病気」に近いのかわかりませんが、彼らのメッセージの表層の背後からきこえてくる魂の声には、看過できない「何か」を感じます。

    彼らは確かに壊れている。けれども壊れたというのは、彼らが鏡のように「正直」だったからかもしれない。彼らは壊れた世界をそのまま自分に取り込んでしまったから、自分も壊れてしまった。それゆえ、彼らを修復するためには、まずは壊れた世界を修復しなければならない…。そんな風にも思えます。

    これは直感ですが、今の行き詰った「文明」を突破するヒントが、統合失調症の世界の中にあるような気がしています。

    それゆえ、彼らの日々の苦しみと格闘は、けっして無駄ではない…。

    そう思いたいし、そう思えます。



    | 佐々木寛 | - | 00:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ログピに投稿する |
    生活か安全か
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       生活か、安全か…。

      昨日開票された、現在浜岡原発のある、御前崎市長選の争点です。

      何という選挙でしょうか。住民がそのどちらかを選ばなければならないなんて。

      そういう争点の選挙をしなければならない時点で、<政治>は完全に失敗しているわけです。

      どちらも大事に決まっているでしょう。

      沖縄の基地問題同様、もっとも近い当事者が、もっとも根源的に引き裂かれる構造。

      これを平和学では、「帝国システム」の中に生起する「構造的暴力」と呼びます。暴力の姿は、昔も今もまったく変わりません。

      しかし、その真実を伝えているメディアはどれくらいあるでしょうか。あたかも、「原発再稼働が住民に承認された」と言わんばかりです。

      まずは明日の生活を何とかするために四苦八苦しているのが、私たち普通の人間の生の姿です。それは当たり前だし、何より政治は人々の明日の生活を守らなければならない。

      しかしだからといって、数年後の、あるいは子どもや孫の安全を犠牲にするということを、一体だれが望んでいるというのでしょうか。

      今回の選挙は、単に住民に「死に方を選ぶ」ことを強いる選挙にすぎません。何という堕落、何という不正義でしょうか。

      そして、こんな社会をいつまで続けてゆけるというのでしょうか。



      | 佐々木寛 | - | 09:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ログピに投稿する |
      「反原発」と「憲法改正」を結ぶ論理
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        「ハシズム」とも呼ばれる橋下現象をどう理解するか。
        いろいろな議論があるようですが、忙しくてほとんどフォローしていません。
        ただ、断片的に橋下氏の言動を見ていて思うことがあるので、書き留めておきます。

        橋下氏は、いろいろな主張をしていますが、中でも「反原発」と「憲法改正」は目をひく要素です。

        本来、保守と革新という古い枠組みで見るならば、この二つの主張が同居することは少々おかしなことに見えますが、おそらく、今の多くの国民の心の中で、この二つの主張は矛盾なく同居しているのかもしれません。

        この二つの主張を結ぶ、共通の論理は何か。

        それは、おそらく、簡単に言って、「アンシャンレジーム(旧体制)の解体」であるのだと思います。「戦後体制」そのもののラジカルな否定と言えるのかもしれません。それほど、今の政治は国民にとって行き詰っていて、出口が無いように見えるのです。

        ですから、まずは具体的な行動や成果を示して、どんどんと旧体制を解体してゆく小気味よい橋下政治は、多くの国民に爽快感をもたらしているのでしょう。何の実証的な証明もできませんが、ともかく、「こんなにまで行き詰っているのだから、まずは壊してみないと何も進まない」という心境が、多くの国民に共有されていると言えるのかもしれません。ですから、「ハシズム」だとかいって、歴史を持ち出し、高みから批評をする学者や研究者も、彼が一言、「彼らもまたアンシャンレジームだ!」と宣言すれば、いっきょに説得力を失ってしまうわけです。

        橋下政治の本質は、一も二もなく、「過去の破壊」にある。それゆえ、おそらく、かつて「自民党を破壊する」と言って人気を博した小泉政治の系列に位置しています。つまり、最終的に「何らかの秩序をつくりだす」ことに橋下政治の本当の目的はないのではないか。「破壊」のプロセスそのものに、そしてそのプロセスにおいて大衆に愛される(権力を掌握する)ことにこそ、その真の政治目的が内在している…。

        確かに、たとえば維新の会の「船中八策」は、具体的な政策マニフェストだと言われています。けれども、個々の「策」同士の整合性はあまり高くありませんし、それ以上に、一院制や憲法改正など、実はそれが実現までにかなりの困難と時間を要するということにこそ、「八策」の真の意味があるようにも思えます。つまり、マニフェストは、「今までとは全く違う何か」であればそれで良いわけで、それが漠然としていて遠い目標であればあるほど「破壊」のプロセスを持続することができる。通常、マニフェストは、具体的になればなるほど、色あせて見えるものですから、橋下政治の本質が私が予想したものであるとすれば、「船中八策」は、これ以上具体的に議論をしないほうが彼の政治にとっては有益であるはずです。

        過去や歴史の軽視、そして憎しみ。それが橋下政治とそれを支持する人々の意識の底流にあると思えてなりません。そしてそれは、やはり、1930年代のドイツの社会心理状況と酷似しているのです。

        歴史に謙虚でなかった日本人が、2011年に原発事故を起こした。そして、同じ歴史に学ぶことのない不遜な日本人が、憲法の理念を実現する前に、それを「古くなった」と言って変えようとしている…。

        橋下政治の一連の騒動を見ていると、ぼくにはそう思えてなりません。

        終始一貫しているのは、国民も、そして政治家自身もまた、「政治」を信じていないという事実です。


        | 佐々木寛 | - | 16:30 | comments(1) | trackbacks(0) | - | ログピに投稿する |
        あれから1年?
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           今年の「3月11日」は、アメリカから日本に帰る飛行機の中でした。

          福島や東京では、「1周年」ということで、事前にいくつかの集会などのお知らせがあったのですが、どれも出席できませんでした。テレビや新聞でも、多くの特別企画があったようです。

          けれども、なぜか、この「あれから1年」という言い方が、しっくりきません。

          私の中では「あれから」時間が止まっているように感じます。すくなくとも自分は、1歩も前に進んでいるとは思えません。そして「あれから」起こったすべてのできごとが、今思い出しても、なぜかかすんで小さく感じます。

          原発事故については、そのために備える思想をノロノロと準備していた最中でした。けれども「それ」は起こってしまった。今では、もう捕捉することのできないくらいの多くの関連本が、本屋に山積みになっています。それを見ても、なぜか空しい感覚が襲ってきます。多くの「言説」や「評論」が、かつてと同じように、原発という流行にハゲタカのように群がっているだけのようにも見えます。

          「除染」や「復興」という、表面だけを取り繕い、その実、腐臭を放つ言葉たちも同じです。なぜ日本人は、じっと佇まないのか。なぜ次々と意匠を凝らしてごまかそうとするのか。なぜ経験を経験として生きようとしないのか。そう感じます。

          ヒロシマもナガサキも、第五福竜丸も、今や日本人の記憶の中では色あせた存在にすぎず、1年に1度、「あれから…年」という形で思い出されるものでしかありません。そして、フクシマも、たった1年で浄化され、記号化され、無色になっていくのでしょうか。

          永遠の時の中で考える。

          だから1年などというのは、まばたきにすぎません。

          これから何十年、あるいは何百年も見据えて考えなければなりませんし、そのためには、今から何十年、何百年も前から考え直さなければなりません。去年のできごとは、そういう種類のできごとだったと思います。

          危機は今に始まったわけではなく、人間が核をつくりだしてからすでに始まっていました。
          そしてその危機は、地球上に核が存在する以上、存在し続けます。

          だから、あわてふためく必要もありません。これまでと同じように、人間が抱える本当の<危機>を見据えつづけ、これを克服する道を探るしかありません。現代の人間が生きるということは、きっとそういうことなのだと思います。






          | 佐々木寛 | - | 02:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ログピに投稿する |
          市場の果て
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            NHK特集「ヒューマン――なぜ人間になれたのか」は、4回シリーズだったのですが、いずれも興味深い内容でした。

            今回が最終回。テーマは、人類にとってお金が生まれたことの意味についてです。

            今から約6000年前、最初の古代都市「テル・ブラク」で、麦が通貨として使用されていた時代から説きおこし、「交換」・「市場」・「信用(制度)」・「職業(分業)」・「都市」、そしてそもそも「個人」が生成する論理が紹介されていました。古代文明の時代から、「貧富の格差」や「債務奴隷」の問題が存在し、それにともなう「ジェノサイド(大量殺りく)」や、それを克服するための債務帳消しの試みなどもあったことがわかりました。部分部分、飛躍というか、説明に強引なところはあるのですが、きわめて示唆に富む内容でした。

            特に、古代ギリシアで貨幣(コイン)が誕生し、そこから人生の長期設計という思想や、共同体から自立した「個人」が生まれたという説明には、ハッとさせられました。市場も貨幣も、「文明」をつくりだしたきわめて「人間的」なものであったわけですが、その誕生の初めから、既存のコミュニティを突破する「個」の論理を内在させていたということを再認識しました。

            狩猟採集によるお金のない(必要のない)社会(人類史のほとんどを占めます)では、何でも分け合うのが当然であり、富が一部に蓄積されない平等社会であったわけですが(番組ではカメルーンのバカ族が事例として挙げられていました)、貨幣経済は、自由な「個人」を生み出し、同時に既存のコミュニティを動揺させることにもなります。

            さらに、たとえば古代ローマで次第に純度の低い銀貨がつくられるようになったように、通貨は徐々に現在の紙幣に近い、信用のみに基づくものとして世界に広まるようになりました。そしてお金はそれ自体、実体経済とは一応自立して、いわば自己目的的な存在になっていきます。そして21世紀の現在、グローバルな金融資本が地球上を秒速で駆け回るまでになりました。現在、1日に新たに生み出される金融資本は、約8兆円であると言います。

            今朝の新聞で知ったのですが、このような現代の世界市場の現状は、私たちの想像をはるかにこえていて、高頻度取引(High Frequency Trading)と呼ばれるように、コンピュータによって自動化された100分の1秒を争う高速ゲームのような状態であるとのことです。ここではもう市場での取引自体において、人間の手は必要なくなるわけです。

            つまり、瞬間的に数十、数百億という、一人の人間が一生かかっても使いきれない量のお金が操作され、それによって「さらに」多くを稼ぐために、世界中の才能が眠らずに競っているわけです。そして、その一方で、古代国家でそうであったたように、現代でも無数の債務奴隷(国家)が存在し、貧富の格差が深刻な社会問題となっています。そして何よりも、「無縁社会」と呼ばれるような、もはや「人間」であることを否定されるような荒涼とした世界が到来しています。

            お金を媒介にして、交換する。そして市場を形成する。これは、「人間」として、まさに誇るべき「文明」の源でした。しかし、いつの間にか、お金や市場は、「非人間的」なものとして私たちの前に立ちはだかっています。素朴な問いですが、まさにそれがどうしてなのかを解き明かすことなしに、私たちは次の「文明」を思い描くことはできないでしょう。







            | 佐々木寛 | - | 23:56 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ログピに投稿する |
            新しい教育――ワークショップの可能性
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               この6年余り、私が勤める大学で実践してきたことのひとつに、「国際交流インストラクター」の養成というプロジェクトがあります。

              http://www.nuis.ac.jp/iuip/

              これまでの大学教育の限界を感じ、学生が主体的に体を動かして自ら学び、また自己表現とコミュニケーションを重視するという新しいスタイルの授業を試みたのですが、予想以上に成果や反響が大きく、いつの間にかプロジェクト自体が成長進化を遂げていました。私の努力というより、この方法に共鳴した多くの人たちによるボランタリーな努力がどんどんと事業を推し進めていったという印象です。

              要は、学生が、単に既存の知識を学習するのみならず、「ワークショップ」を行う「ファシリテーター」としての技術を学ぶことで、<知>を他者に「伝える」、あるいは他者と共に<知>を生み出す能力を養う試みなのですが、これは説明するより、具体例を観てもらったほうがいいかとも思います。

              http://www.nuis.ac.jp/iuip/jigyou.html

              http://www.nuis.ac.jp/iuip/work.html

              最近、M.サンデル教授の対話型の授業方法が流行っていますが、それをもっと進めて、いわば、参加学生全員がサンデル教授になって授業をするというイメージです。


              さて、これは広い意味での「市民教育(citizenship education)」であると私は思っています。知識は個人が所有し、他者と<競争>するためにあるのではなく、他者と<共同性>や<互恵関係>を形成するためのものであるということを、若者たちが身をもって経験すること。「ディベート」ではなく、他者の声を活かす方法で自らを<表現>する「民主主義的リーダーシップ」の能力を養うこと。

              これらはいずれも、来るべき新しい文明社会に不可欠なものです。

              近々、「新潟平和教育センター(仮称)」を立ち上げ、ワークショップによる市民教育の新しい可能性を追究してゆこうとも考えています。




              | 佐々木寛 | - | 02:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ログピに投稿する |
              映画『第四の革命』
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                 先日、カール・A・フェヒナー監督の『第四の革命』(2010年)を観ました。来月新潟でも上映会を予定しており、その試写会でやっと観る機会を得ました。

                世界10か国を飛び回り、新しいエネルギー社会への胎動を次々と紹介する映画です。ドイツでは、自主上映会が約200か所、約13万人が足を運んだといいます。(「2010年ドイツでもっとも観られたドキュメンタリー映画」だそうです。)

                内容がrichというか、情報量が多く、メモを取りながら観る必要がある映画です。勉強になります。あのヘルマン・シェーア氏(映画公開の年にお亡くなりになりました)がナビゲーションをしながら、ムハマド・ユヌス氏やイーロン・マスク氏なども登場し、再生可能エネルギーへのシフトが実現可能であることを訴えます。

                たくさんの発見があったのですが、大きなものは二つありました。

                まず、世界の20億人以上が電気なしの生活を強いられているという事実。つまり、電気を使用することはこの人たちにとってはまさに「Basic Human Needs」であり、エネルギー問題は、単に先進国の消費の観点からだけでなく、世界大の南北問題の軸で考えなければならないということ。そしてこういった地域こそ、実は新しいエネルギー技術が有効なのだということです。

                そして二つ目が、「脱原発」は、単に火力発電への回帰ではないということ。つまり、地下から取り出されるエネルギー(石油・天然ガス・石炭・ウラン)はどれも一体化したエネルギー産業システムを構成しており、その既得権益システムこそが、新しいエネルギー社会(地上エネルギー社会)の誕生を阻んでいるということです。既存のエネルギーシステムが中央集権的なら、新しいエネルギー社会は、まさに映画の副題「Energy Autonomy(エネルギーの自立性)」にもあるように、分権的で自立的です。それゆえ、再生可能エネルギーへの転換は、エネルギーのみならず、社会全体、地球全体のあり方を民主的な方向へと変える可能性があります。

                この映画は、ドイツではその後のエネルギー政策へ大きな影響を与えたといいます。果たして、日本ではどうでしょうか。未だ終息しない原発をかかえ、瓦礫問題や賠償問題に悩む私たちは、未来の社会を構想する元気も出ないというところでしょうか。

                けれども、たとえ今の日本はどうであれ、世界はもう動きつつあるということが、この作品の最大のメッセージであるという気がします。



                | 佐々木寛 | - | 14:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ログピに投稿する |
                シンガポールで考える 3
                0
                   滞在中、シンガポール国立大学を訪れました(写真)。

                  緑の美しい、広大なキャンパスに、約2万5千人の学生が学んでいます。



                  そもそもシンガポール自体が多民族国家であるので、キャンパスで歩いている学生たちを見ても、まさに「国際社会」そのものです。知的創造性は、このような多様性から生まれるのだとすれば、うらやましい限りです。この点は逆立ちしても、日本の大学(特に地方の大学)には太刀打ちできない気がしました。

                  その一方、購買部で政治学のコーナー(写真)を見学してみると、これだけの規模の大学であるにもかかわらず、正直少々貧弱だなと感じた次第です。えてして東アジア諸国の本屋さんの政治学の棚は、アメリカ政治学一色なのですが、ここも例外ではなく、また並んでいる本もバラバラでした。いろいろな先生が指定したテキストをならべているだけなのかもしれませんが、それにしても、おざなりな感じはぬぐいきれませんでした。日本と同様、ここでも学生が本をあまり読まなくなっているのかもしれません。



                  これも勝手な決めつけですが、映画や芸術と同様、政治学の「発展」が、その国の「市民社会」の成熟度のバロメーターだとすれば、シンガポールの政治学の状況は、シンガポール社会の状況を多少は反映しているはずです。シンガポール社会に自立的(かつ批判的)にものを考える民衆がどれだけの厚みで存在しているのか…。もちろん、この問いに簡単に答えることはできません。しかし、実際に日本の政治学の衰退現状を見ても、事態はどこでもあまり変わらないのではないかとも思います。

                  一方、その前日に紀伊国屋書店を訪れた際、そこにかなり大きなスペースで「平和研究」と「テロリズム研究」という棚を発見し、驚きました(写真)。その隣の梯子がかかっている大きな棚は、「戦争(軍事)史」のコーナーです。これは、ヨーロッパの国々(特にイギリス)の本屋さんの並べ方に似ています。この書棚に、どれだけ一般のシンガポール市民が本を求めてやってくるのかは疑問ですが、ここには確かに、ヨーロッパ教養主義の香りが残っていました。



                  前述のH教授との対談の中で、学生が自分の頭で批判的に考えられるようになることがいかに重要であるのかという点について、意気投合しました。どうやらシンガポールでも、それは大きな課題であるようです。


                  | 佐々木寛 | - | 15:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ログピに投稿する |
                  シンガポールで考える 2
                  0
                     その国に行くと、私はたいてい美術館に行きます。とくに現代美術館。

                    現代アートとっても、その作品が(国立の)美術館に展示されているということ自体で、すでに公式化(制度化・無力化)されているといえるのですが、いずれも優れた作品は「現代」との葛藤の中で生み出されていることには変わりがなく、その国、その社会に生きる人々のダイナミックな精神的格闘の後を見取ることができます。まあ、単純に、私は現代アートの数々の「遊び」の中でただ遊ぶのが好きだというだけのことなのですが…。

                    それで、もちろん、シンガポールの現代美術館(写真)にも足を運びました。



                    私には経験上の仮説があって、それは、その国の「市民社会」の活力は、よい映画やアート作品がたくさんつくられているかどうかでおおよそ判断ができるというものです。それゆえ、もしそれが正しいとすれば、シンガポールのアートを見れば、シンガポール社会の真の活力がわかるということになります。

                    素人判断、そしてあくまで今回限りの独断と偏見ですが、結論からいえば、シンガポールの「市民社会」は底が浅い(?)、ということになるかと思います。たまたまだと思いますが、今回「シンガポール発」の力のある作品にはあまり出会うことができませんでした。


                    ただ、若干の例外があって、たとえば以下の2作品は、印象に残っています。







                    上は、「Parklife」(2008年)と名付けられており、Chun Kai Fengというアーティストの作品です。下は、Dawn NGというアーティストの「Mirror Mirror」(2010年)シリーズのひとつ、「The Glass is Always Greener」です。

                    到底乗ることのできない(遊ぶことのできない)高いブランコ。強制収容所をイメージさせる「life(生活)」。それから、集合住宅に降臨した得体の知れない(かわいい)巨大なウサギ。

                    どちらも、鮮烈な<批判精神>を感じます。

                    これらの作品が、近未来小説、あるいはテーマパークのようなシンガポール社会の中から生まれたものだとすれば、それはとても腑に落ちるものであると感じました。この2人のアーティストの名前は今回初めて知ったのですが、どちらも1982年生まれということなので、これからも楽しみです。

                    いつも変わりつづける国、シンガポール。

                    「民主化」は、間近であるかもしれません。



                    | 佐々木寛 | - | 13:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ログピに投稿する |
                    シンガポールで考える 1
                    0
                      シンガポールに行ってきました。初めてでした。

                      雪の新潟から気温30度以上の熱帯へ。

                      ただの観光地として訪れる以外にどんな深みがあるのか、正直期待していませんでしたが、本当にいろいろと考えさせられました。

                      結論から言えば、グローバル化に徹底的に国家が適応するとこうなる、という生の姿を垣間見ることができたと思います。経済成長率14%以上。失業率は3%以下。文字通り、まさに高度成長の只中にあります(写真の一番上はマリーナベイサンズ57階から)。








                      物価もうなぎ上り。貧富の格差も拡大しています。おそらく億単位の世界一高い給料をもらう大統領と、一方で下は月収が5万円以下の人々。不満も高まっています。

                      タクシードライバー(経験上だいたいアジアでは中産階級に当たります)に水を向けると、例外なく、今の状況に憤懣やるかたないという意見でした。もちろん、あからさまな政府批判はできない国なので(「豊かな北朝鮮」という悪口もあります…)、タクシーの個室の中だけで、安心できると見た人だけに政治的な意見を吐露してくれます。

                      これは良く知られたことであるようですが、シンガポールでは投票は国民の「義務」で、投票用紙はすべてIC番号がついているので、事実上秘密選挙ではありません。政治活動や政治的な自由はことごとく抑圧されています。現地の人に教えてもらったのですが、唯一集会が認められているのは、「speakers' corner」がある「ホンリム公園」だけです(下写真)。しかもこの公園の隣には、警察署がそびえています…。

                      けれども、陰でコソコソではあれ、人々が自分の意見をもち、旅行者にさえ話すことができるようになったということは、社会が健全になりつつあることを意味しています。国家が真にグローバル化に適応するためにも、社会における思想や政治的な「自由」がむしろ必要であるということは、政策決定者自身も受け入れざるをえないのだと思います。シンガポール社会もまた、これから10年ぐらいの内に、さらなる「民主化」を経験するようになるのでしょう。




                      「自由を取るかパンを取るか」で、明確に「パン」を選択し、国際市場で生き残るためのあらゆる政策を迅速に遂行してきた、動き続ける都市国家、シンガポール。

                      シンガポールから見ると、日本はまるで巨大で愚鈍な年老いた恐竜のようです。きくところでは、教育の基本原理はすなわち「競争」。小学校6年生で行われる統一テストで人生の方向がほぼ決まってしまうため、教育熱心な親たちはまさに鞭をもって小さい頃から子どもたちに勉強を詰め込みます。トップエリートは、国家が手厚く保護をしますが、そういうエリートに限って、アメリカの大学に留学したまま帰って来ず、まさにコスモポリタンとして世界を舞台に活躍します。

                      コスモポリタン。

                      華僑、客家の伝統なのか、シンガポールという「国家」は、無味無臭というか、きわめて観念的です。総人口約500万人中、約150万人が外国人。外資や外国の優秀な頭脳をどんどん招き入れることで経済を活性化しています。したがって、シンガポールの市民権概念には、文化や土の匂いがしません。いわば、「市民(ブルジョア)国家」の理念型のような国。したがって、むしろ今の野党勢力や民主化勢力のほうが「ナショナリステッィク」である(時に排外主義的でもある)、という(台湾と同じような)ねじれ現象が見られます。

                      私は、シンガポールに、21世紀のグローバル国家の姿を見た気がします。停滞した日本が「生き残る」ために学ぶべきことも多くありますが、正直、日本のような「ゆるい」社会で良かったなとも思います。歴史のトレンドは、きっとシンガポールの方にあるのでしょう。日本はアジアを蔑視しているうちに、もうアジアからも取り残されています。しかし、それが人間にとって良い方向なのかどうかは別の問題です。

                      対談した、シンガポール国立大学(NUS)のH先生は、今の日本が勇気をもって原発から手を引くこと、そして個人個人が内発的で自立した思考を開花させることが今の日本再生の条件であると指摘されていました。 私もまったく同感でした。



                      | 佐々木寛 | - | 21:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ログピに投稿する |
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