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自分の命をささえるもの

 

 本当に久しぶりにブログに投稿します。約1年間ご無沙汰してしまい、ごめんなさい。今回は、私が今もっとも熱心に取り組んでいる地域の市民たちによるエネルギー創造の試み、「おらってにいがた市民エネルギー協議会」の会員向けのお便りから。最近は、「<文明>の新しいかたち」を創りだすための条件は何か、をずっと考えています。

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 私は生まれた時、少々体が小さすぎたので、しばらくは保育器の中で過ごしたそうです。また1歳から重い小児喘息にかかり、特に子どもの頃は、私の面倒をみる母親が「寝間着を着て寝たことがない」というほど病気がちで、両親に苦労をかけました。小さい頃から何度も入院し、注射や点滴も数えきれないほどたくさん打った記憶があります。
 私は大人になって勉強をするうちに、人類はそろそろ歴史的に「近代文明」そのものを根底から問い直す必要があると思うようになり、これまでもそういうことを言ったり書いたりしてきました。けれども、近代の医療や科学技術の発展、あるいは日本の近代化や経済成長がなければ、そもそも今日の自分が存在しているのか、自問せざるをえません。
 自分の人生や生命の全体をささえているものを改めて点検してみると、想像以上に複雑に絡み合い、分業化され、システム化された「近代文明」の姿が浮かび上がります。私は裕福でもない家庭に生まれながらも、なぜ十分な学びの機会が与えられたのか、またそもそもなぜ、深刻な飢えに一度も直面することもなく、安定的なエネルギーを十二分に消費しながら暖かい光の中で毎日を生きてこられたのか。すべては先人たちのおかげです。
 ただその有難い「文明」の中で、自分の命が高度に構築された巨大システムの一部のようになってしまっていて、自分の着るもの、食べるもの、そしてエネルギーも、実際は自分一人では何もつくりだせないという現実に戦慄することがあります。私たちの命が、もし巨大システムの円滑な稼動に依存しているとするなら、そのシステムがある日突然ダウンしてしまえば、それは即座に自分の命の危機に直結することになるからです。私にとって、それは、ある日突如起こってしまう、核戦争や原発事故のイメージと直接つながっています。
 今、私がもっとも気になっているのは、現代人の社会や政治に対する「無力感」です。この「無力感」はきっと、自分の命の存立基盤を過剰にシステムに依存させていることに起因しているのでしょう。根源的な「無力感」を抱えながら、またそれゆえに、システムの危機と自分の命の危機とを直感的に同一視する人間が、既存システムの温存をひたすら願うという意味での「保守」へと傾斜するという論理は、考えればよくわかります。
 その意味で、私たち「おらって」の試みは、“命の基本に立ちかえって、それを支える食・エネルギー・教育・ケア・安全などをもう一度自分たちの力でつくってみせる、そしてそれによって私たちが囚われがちな根源的な「無力感」を少しでも克服し、やがては、社会や政治すらも自分たちの力でつくりだすことができるのだという自信を取り戻すプロジェクトなのだ”、と言えるのかもしれません。

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