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〜 <文明>の新しいかたちを求めて 〜 ( 佐々木寛のブログ )

希望の政治学読本 
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    『日刊ゲンダイ』の書評連載、第6回目まではブログに掲載しましたが、7回目〜も載せておきます。

     

    ジーン・シャープ『市民力による防衛』(法政大学出版局) 3800

     

     

    「おまかせ安全保障」からの脱却

     

     よく、「北朝鮮や中国が日本に攻めてきたらどうする!」と問われることがある。どうなるかよく考えてみる。もし何もしなければ、占領されるかもしれない。けれども占領後、人口1億人以上の先進国をどのように支配するのか。侵略者はまず、複雑な官僚機構を動かすために、日本語をしっかりと勉強しなければならないだろう。そして何より、自分たちの支配が1億人以上の国民にごく正当なものであることを信じ込ませなければならない。

     冗談のような思考実験であるが、現代の安全保障問題のある本質を浮き彫りにしている。「敵」の攻撃を「抑止」するための力の中で、軍事力は依然として大きな役割をもつのかもしれないが、それ以外にもたくさんの政治的・社会的「抑止力」が存在する。本書は豊かな歴史的経験の中から、市民の非暴力的な力が、社会にとっての不当な脅威を十分にはねかえす可能性があるという事実を導き出す。注目すべきは、この脅威とは、何も外国には限らないということである。歴史的によく考えれば当然だが、クーデターなどによる独裁者や自国軍、警察もまた、私たちの脅威となりうるからだ。

     著者によれば、準備され訓練された「大規模な非協力と大規模な公然たる拒否」によって、支配権力を「餓死」させることができる。たとえ一時的な弾圧があったとしても、それを新たな連帯や抵抗の力とする「政治的柔術」によって、逆手に取ることもできる。軍事力に頼らない市民による安全の実現は可能なのだ。

     このような議論に、「現実を無視した甘い議論だ」、あるいはまったく逆に、「非暴力論にしてはあまりに戦略的だ」という反論がありうる。しかし本書を読めば、著者の構想が長期的にはいかに現実的なものであるかがわかるだろう。

    | 佐々木寛 | - | 01:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    断末魔としての「改憲」
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      いよいよ安倍首相は、2020年に改憲を果たすと明言しました。

       

      言うまでもなく、彼が変えたいのは「9条」です。具体的な条文云々というより、何よりも「象徴としての9条」を変えることが彼の(すぐれて個人的な)悲願となっています。

       

      9条2項まではそのままにして3項に自衛隊を位置づける「加憲」の提案や、「教育の無償化」を新たに謳うといった提案は、すべて事実上9条の本質を変更するための政治的な「方便」にすぎません。そのことは、もうすでに多くの心ある人々が見抜いている通りです。もう「変える」こと自体が自己目的化していて、まるで映画『博士の異常な愛情』の世界のようになっており(安倍首相を見ていると、核爆弾にまたがって嬉々として落下していくコング少佐を思い起こします)、事態はもはや社会心理学的なアプローチ無くして把握が難しくなっています。

       

      「この道しかない」ということなのですが、確かに、今の政権与党(あるいはそれに付き従うだけの官僚たち)の世界観、これまでのいきさつ、彼らの実際の政策能力などを鑑みれば、もう彼らに取りうる選択肢は他にないのだろうというのは、分かる気がします。異次元的金融緩和、オリンピック、改憲、武力衝突(戦争)などなどのいわば「政治的なカンフル剤」をその都度、その場限りで打ち続ける以外に、大衆の同意を調達し続け、政治権力を維持する方策がないというのは、もはや日本だけの現象ではありません。たとえば、現在迷走するトランプ政治は、安倍政治の二番煎じ、あるいはパロディーのようにも見えます。やぶれかぶれの極右政権の誕生は、今や世界中のトレンドとなっています。われらが自民党も、「この道しかない」というより、「もう打つ手がない」というのが真実に近いでしょう。また「機が熟した」というのも、実際は「今やらないと、もうできない」ということだと思います。

       

      さて、そんな安倍政治を支持する大衆は愚かでしょうか。必ずしもそうではありません。もしかすると、安倍政治が抱える<危機>の根深さを一番肌身で直観しているのが、これら多くの有権者かもしれません。<危機>の根が深いことを知っているからこそ、安易な政権交代や、口当たりのいい理想論に希望をもつことができないのかもしれません。絶望した政治的指導者と、絶望した民衆は、確かに「呼応」しています。長期的に絶望している人間は、えてして短期的には楽観的にふるまいます。刹那的な今日の明るさは、明日の絶望とむしろ親和的だと言えます。日本全体は、とりあえず2020年に向かって(その後は考えずとも)、走り抜けようというメッセージは、絶望した人々の偽りの「希望」を喚起するでしょう。昨今の政治的指導者の役割は、「もうウソでもいいから今だけはいい気分にさせてくれ」という民衆の要望に、ただひたすら刹那的に応えるだけとなってしまっているように見えます。

       

      確かに、<危機>は根深いのです。

      しかし、それはどこまで根深いのか…。

       

      来年は、明治維新150周年です。鹿児島では、今から期待を込めてカウントダウンが始まっているようです。しかし私の考えでは、現在の<危機>の根源は、だいたいそこいら辺から考える必要があります。「文明開化」と「富国強兵」という一貫した近代のプロジェクトがエリートたちによって継続的に推進され、また挫折してきた歴史。それが日本の近代史です。たとえば、福澤諭吉が夢見た「文明」の開化は、実は未だ達成されていません。「文明」の最大の要諦である「多事争論」、すなわち熟議民主主義は、この国ではまだ一向に社会の血肉とはなっていません。また、「富国強兵」の「強兵」プロジェクトは、敗戦で完全に挫折しました。ただ「富国」プロジェクトは、戦後冷戦体制の羊水の中で継続され、いったんは成功したように見えました。しかしそれも、「3・11」(第二の敗戦)で再び挫折しました。中央集権的、一国主義的、エリート中心主義的「近代」の限界がだんだんと露見するようになっています。

       

      「この道しかない」と考える人々は、もうこうなったら、たとえば教育勅語に帰るしかない、と考えます。下手をすれば、もう一度しっかり戦争をやって勝てばいいんだ、ということなのかもしれません。「敗戦」を認めることができない、「敗戦」を契機に「転生」するのではなく、もう一度「敗戦」前に戻ってやり直そうということなのかもしれません。しかしこれもすぐれて社会心理学的アプローチが必要な領域です。米国に徹底的に服従しながら、もと来た戦前の道を引き返すというのは、論理的な矛盾を抱えているからです(つまり、米国の望む日本の再軍備と、日本のタカ派の思い描く再軍備は本当は同じではないということです)。結局、非合理的な錯乱した選択が「ナショナリズム」という万能の皮袋に包まれて、さらにコントロール不能な混乱を巻き起こすという、とても悪いシナリオが浮かび上がります。

       

      「もう一つの道」はあります。細くて険しいかもしませんが、また時間がかかるかもしれませんが、本当の希望への道です。それは、第一の敗戦と、第二の敗戦との両者の失敗を、忘却するのではなく、逆に徹底的に見つめ続けることから生まれます。いわば、失敗や挫折を「転生」に接続する道です。この新しい道は、<近代>のプロジェクトのはじめに立ち帰って、たとえば、真に安全な社会とは何か、真に豊かな社会とは何か、真に「文明的」な社会とはなんであるのかといった、もっとも基本的な事柄を、最初から考え直すことによって生み出されます。

       

      安倍首相の「改憲宣言」は、私には、行き詰った<近代>の断末魔のように聞こえます。そこには、子どもや未来の世代を託せるような、長期的な希望はまったく存在しません。せめて150年以上前に日本の<近代>を設計した多くの優れた先達たちが、悩み、苦闘したレベルにまで、今の私たちは立ち戻る必要があると思っています。

       

       

      | 佐々木寛 | - | 02:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      自分の生命(いのち)を生きるということについて
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        また前回より2か月以上経ってしまいました。

        時間が経つのは早いのですが、きっと人生そのものもあっという間に終わるのでしょう。

         

        昨年の知事選、「新潟の奇跡」について、なぜそんなことが起きたのか、選挙後に良く訊かれるようになりました。

        社会科学者として、あるいは当事者の一人としてその都度誠実に答えようと努めてきましたが、現段階では、精確にはすべての理由を理解することはできない、というのが結論です。つまり、「偶然」の要素も大きかった。

         

        そして、最近はこの「偶然」がもたらす力について、良く考えるようにもなりました。思い返せば、当初の自分が思い描いた通りに、あるいはそれ以上に事態が進展していったのですが、要所要所で「神の手」ともいえるような偶然の助けが舞い込んできたと思います。岩盤のように強固だと思われた「構造」に、思いのほか簡単に隙間やひび割れを見出すことができ、乗り越えることができたという経験は、何か大きな波に乗って波乗りをしているようでもあり、また個々の小さな決断が次々と大きな力に変換されるという不思議なものでした。

         

        社会科学では、社会制度が持っている惰性や構造的な制約性が強調されます。つまり通常、個々人がもつ力はそれほど大きく評価されません。しかし、社会の「構造」は、実は個々人の日々の決断や行為の集積によって成り立っており、日々つくられる構成物でもあります。そしてまた、岩のような実体だと思われている「構造」も、実際は社会を構成する人々のその時のいわば「共同幻想」にすぎないという場合もあります。もし国家や権力や制度が「共同幻想」にすぎないとすれば、それが「幻想」であると分かったとたん、ガラガラと崩壊する可能性もあります。もちろん、そんなことはめったにないのですが、たとえばヨーロッパで冷戦が終焉し、ベルリンの壁が崩壊した時、あるいは「3・11」後に原発の「安全神話」が崩壊した時のように、多くの人々がほとんど疑わなかった建前や信念も、一夜にして無価値になってしまうという事も起こりえます。また、そういう既存制度の脆弱性は、近年ますます増大しているようにも見えます。

         

        文学的な表現ですが、歴史は明らかに「加速」しています。そして今日の決断が、ますます翌日の歴史の進路を決定するようになりました。私たちが今日の決断の結果生まれた明日を生きるようになる度合いも増しているように思えます。この場合、歴史とは、ある時、誰かが、何かをしなければ、次の出来事は生まれえなかったという、無限の可能性に満ちた微細な選択の連続体として見えるようになります。そしてその場合、限られた資料に基づく歴史学が明らかにできるのは、常にその無限の「偶然」の連鎖の、ほんのごく一部分でしかなくなるでしょう。

         

        しかし不思議な事に、多くの人々は、今自分を拘束している決まりきった「構造」からはけっして逃れることはできないと信じており、無力感にさいなまれています。そして日々忙しく、均質的な「他人」の視線の中で、猜疑心と嫉妬に身もだえしながら生きることを強いられています。国家や民族や国境という「共同幻想」が21世紀の現在でも不思議と力をもつ背景には、均質化し、やせ細った「生」とその根源的な不安定化が透けて見えます。不安におののく均質的な「生」は、他者への不寛容を生み出します。本当は世界を変えられる機会と能力を持ちながら、逆に与えられた「幻想」や「神話」の中に自らを拘束し、自分の「生」に対する根源的な誇りと信頼を見いだせずにいます。

         

        古生物学者に訊くまでもなく、自分の生命(いのち)は、数千万年、数十億年の宇宙の歴史のほんの一瞬の奇跡です。ひとつ間違えば存在すらしていなかったガラス細工のようなものです。私たちの生命(いのち)は地球がちょっとバランスを失うだけで簡単に潰えてしまうほど、か弱いものです。それを壊すのは本当に簡単なことです。今では核のボタンを一つ押すだけで「人類」はその歴史の幕をすぐに閉じてしまうでしょう。生命(いのち)は、宇宙全体の繊細な多様性によって相互に繋がれています。多様性の消失は生命(いのち)そのものの消失です。つまり、自分の生命(いのち)は、この宇宙でただ一つ、唯一無二だからこそ、価値があるのだと言えます。それゆえ、単一の物差しで自他の生命(いのち)を計ろうとすれば、それ自体が生命(いのち)の論理の否定となるでしょう。

         

        現代人は、自分の生命(いのち)の価値について、忘却を強いられています。それがあらゆる現代的病理の根源となっています。地球や自然、宇宙につながる生命(いのち)の論理を、自らの生活と人生に回復すること。十分な休息の中で、深呼吸をし、古代の先祖や地球と対話する内省の時間を確保し、まさに「自分の時間」を生きる心の習慣を得ること。何よりも自らの生命(いのち)の真の価値に気づき、生命(いのち)を均質化しようとする無数の雑音と謀略に惑わされない本当の自立性を獲得すること。

         

        このように個々人が真に自分の生命(いのち)を生きるということによって、他者と共に生きる知恵が生まれるでしょう。目先の利益や消費の絶対量が人生の幸福を決める、あるいは他者との競争に勝利し、他者を支配することが幸福である、といったような「神話」や「幻想」からできるだけ多くの人々が解放されることが、真の社会変革の第一歩となります。

         

        今回は少々回りくどくて抽象的な文章となりましたが、来るべき新たな民主社会を創りだすためには、あるいは、今後も多くの「奇跡」を生み出すためには、今こういった根本の所がおそらくもっとも重要なことであると思ったので書きとめておくことにします。

         

         

        | 佐々木寛 | - | 02:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        新しい新潟県政について
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          多忙に任せ、前回の投稿からまた2か月以上経ってしまいました。

           

          あれから本当に新しい候補を生み出すことに成功し、しかも選挙にも見事勝利することができました。参院選から、いわば「ホップ・ステップ・ジャンプ」と、一連の流れにあったと思います。つまり、参院選の勝利がなければ、知事選の勝利もなかったように思います。

           

          「新潟ショック」とも呼ばれますが、一種の「奇跡」だったのでしょう。確かにいくつもの偶然や奇跡が重なりました。けれども、どんな「奇跡」も後で考えれば「必然」の要素があります。もうすでに、新聞やテレビのインタビューで話してきたので細かい事は書きませんが、結論からいえば、地方発の新しい市民政治の時代が始まったということだと思います。その影響は、当初私が考えていたよりも全国規模で、なおかつ社会の地層の深いところに届いているようです。選挙の最大の争点はもちろん、原発再稼働問題でしたが、それに付随して、新しい新潟のあり方が問われました。

           

          新しい新潟県知事、米山隆一さん。彼の6つの公約を改めて確認しましょう。

          http://www.yoneyamaryuichi.com/seisaku.html(公式ホームページ)

           

          <安全への責任>

          仝胸厠亘漂劼悗亮茲蠢箸

          ⊆然災害(雪害、水害、地震他)防災に対する取り組み

           

          <食と農を守る責任>

          。圍丕仟从

          地域農業保護対策

          21世紀型の「農業大県」への挑戦

           

          <命への責任>

          〇勸蕕道抉隋少子化対策

          中央と変わらない医療の実現

          新たな医療の創造

          っもが安心して暮らせる介護の実現

          グ多瓦諒〇秬度の実現

          拉致問題の完全解決への取り組み

           

          <雇用の責任>

          /軍磴陵便性の向上

          企業・起業の支援

          新産業の促進

          てく環境の向上

           

          <住民参加への責任>

          ^貎涌貎佑参加できる県政の実現

           

          <教育への責任>

          |もが安心して教育を受けられる新潟

          ⊆舛旅發さ遡涯軌蕕亮存

          7歃冓顕修砲茲訝楼菫和

           

          以上ですが、この公約の細目の中には、「自然エネルギー企業への支援(新潟県版「グリーンニューディール」)」、「地域の観光資源とイベントを組み合わせたストーリーのある観光資源の創造(グリーンツーリズム、食のツーリズム、アートツーリズム)」、「県民健康ビッグデータの民間開放による、健康産業創設の支援」、「定期的なタウンミーティング」、「新潟版「給付型奨学金」の創設」などなどのキーワードがあります。原発型社会からの脱却と「新しい社会」へ向けた取り組みが謳われています。

           

          このブログのテーマでもありますが、「<文明>の新しいかたちを求めて」、新潟県という自治体でそれが可能であるかどうかが試されます。もちろん、それは容易な事ではありません。これらの公約をすべて実現するためには、いったい何年かかるかわかりませんし、思わぬ事態も発生するでしょう。けれども、幸いとても有能な新知事です。私たち新潟の市民も、腰を据えて知事を長く支えてゆければ、きっと不可能ではないでしょう。しかし逆にこういう「理想」に満ちた政権は、えてして短命であることも、歴史が教えるところです。「理想」を実現するための狡猾な知恵も必要です。知事を支える、県民ならびに全国の叡智が必要です。

           

          新潟がモデルとなって、日本の民主政治が息を吹き返すようになればと夢想します。一方、現実には無数の課題が山積しています。そこで、かつて丸山眞男が語った「民主主義の“虚妄”に賭ける」ということばを再び思い出します。「“虚妄”に賭ける」。この言葉の本当の重みと深みを再認識しています。

           

          | 佐々木寛 | - | 00:21 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          試される「野党」の力――新潟県の知事選に寄せて
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             参議院選挙が終わったばかりだというのに、新潟は知事選を迎えて大騒動です。ご存じの通り、現職知事が「心が折れた」と言って突如選挙から撤退したために、特に原発や災害問題で知事の政策に拍手を送っていた市民の皆さんは驚き、悲嘆に暮れています。唯一残っている候補者は、まだ明確な政策を提示していませんが、現与党との関係が深く、原発再稼働につき進むのではないかと思われます。

             

             そんな中、こうなった以上、知事選にも何らかの形で市民連合が関与するべきだというご意見も多くの方々からいただきます。しかし、もともと「市民連合@新潟」は安保法制を廃止して立憲主義をとりもどすために結成された団体なので、今回の知事選の争点で活動するのは筋が違います。もし原発政策を争点にするなら、別の形の市民団体をつくる必要があります。ちなみに私は、民主主義の最低限のルールをめぐって争われた前回の選挙では「共同代表」として名を連ねましたが、原発問題ではそれは私ではなく、他の方の役割だと思っています。

             

             知事選は、一種の大統領選挙のようなもので、本来一つの争点だけで争うのではなく、通常は、経済、福祉、教育、文化など多くの問題を同時に議論する必要があります。しかし今回は、新潟のみならず日本や世界の原子力の行方までも左右する「原発再稼働」という明確な争点があります。メディアも含め、今回の知事選の最大の争点がなんであるかをまずはしっかり明確にして選挙を行う必要があると思います。

             

             さて、目下の課題は、現職知事の原発問題への対応を受け継ぐような対立候補を出すことができるかどうかということです。もし出すことができれば、争点はさらに明確になり、有権者も判断しやすくなります。不戦勝(不戦敗)のまま知事が決まり、県を二分する大きな争点の行方が決まってしまうと、後々かなりの禍根を残します。健全な民主的決定のためには、どちらの立場に立つにせよ、どうにかしてもう一人の候補者を出さなければなりません。

             

             一度は撤退した現職知事がカムバックするのでもいいでしょう。しかし、それではいったん下した「撤退」という決断が軽すぎたということになりますから、難しい判断です。

             

             それゆえ、今、民主主義国家に生きる新潟の市民がすべき事は、選挙の争点が明確になるよう、原発再稼働反対の立場の(そして口先だけでなく住民の安全や被災者の支援を再優先する)もうひとりの候補が生まれるよう、既存政党や社会に働きかけることだと思います。健全な「Opposition(民主主義のための対抗軸)」をしっかりとつくりだすという意味では、先の参院選と同じ課題であるとも言えますが、何よりも「野党」の働き如何が試されているのだと思います。

             

             もう一度言いましょう。今、新潟の「野党」の力が試されています。

            | 佐々木寛 | - | 01:36 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
            希望の政治学読本 
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              「希望の政治学読本」の第6回目です。

               

              ティク・ナット・ハン『和解』(サンガ) 1400

               

              「和解」という冒険の旅へ

               

               「和解」は21世紀のキーワードである。人類は今、近代世界で分断されてしまった多くのつながりを再生させるための思想と技(わざ)とが試されている。「世界を変革しようと思うなら、まずは自分がその変革となれ」という箴言がある。これは実際に世界を変革したブッダやガンディが実践したことでもある。しかし私たちは今世界を「和解」させる前に、まず自分自身と「和解」できていないのかもしれない。本書が示すのは、まさに現代世界の「和解」への鍵が、私たちひとりひとりの内側にあるという真実である。

               人類は、「ホモ・エレクトス(直立する人)」や「ホモ・ハビリス(器用な人)」、あるいは「ホモ・サピエンス(思考する人)」と呼ばれてきた。しかし著者によれば、何よりも私たちは「ホモ・コンシャス(気づきの人)」と呼ばれるべき存在である。私たちは自らの内に潜む痛みや悲しみに対峙し、そこに「内なる明かり」を灯し、それを受け入れ、ケアすることで、自分を構成した家族や祖先、あるいは宇宙全体とも「和解」することが可能となる。過去の幻影に捕らわれ、自我の牢獄に閉じこもるのではなく、自らを「命の流れの続き」として実感し、真に自由になることで、世界に満ちた暴力の再生産(輪廻)から抜け出すことができる。著者はこの絶え間ない気づきの実践を「マインドフルネス」と呼んでいる。

               僧侶であり、詩人であり、人権・平和活動家である本書の著者は、ベトナム戦争時に「社会参画仏教(応用仏教)」の指導者として戦火で傷ついた人々を支援し、また戦争終結を求める和平提案によって母国を追われた。一貫して実践的な彼の教えが志向するのは、自己変革を通じた世界の変革である。昨今注目される「非暴力コミュニケーション」の技法などとも通底している。

               本書は、自律的に世界と連帯する技(わざ)、すなわち「和解」という無限の可能性をもつ冒険の旅へ読者を誘う。訳文もとても丁寧である。

              | 佐々木寛 | - | 00:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              希望の政治学読本 
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                「希望の政治学読本」第5回目です。

                  

                白永瑞『共生への道と核心現場』(法政大学出版局) 4400

                 

                 先の参院選終了後、現政権が真っ先に着手したのは、沖縄高江の米軍ヘリコプター発着場工事の再開であった。本土から機動隊を動員した目に余る強行に「沖縄つぶし!」の声もきこえてくる。沖縄では今、辺野古や高江の新基地建設に「島ぐるみ」で反対の声があがっている。しかし、それを単に安全保障や地域経済の問題として考えるならば不十分である。基地問題は、実際きわめて長らく集団的に差別され、侮辱されてきた沖縄の人々の、何よりも「誇り」や「尊厳」の問題であるからだ。だが、多くの日本人は、その深刻な事態について何も知らない。あるいは、知ってはいても知らないフリをし続けている。

                 さらに、「この道しかない」という本土の権力者たちはこう言うかもしれない。「経済成長によってしか日本人の幸せは保証できないし、中央集権やナショナリズムによってしか日本社会の調和は実現できない。同様に、米軍に依存するしか日本の安全保障を担保する事ができず、したがって沖縄の犠牲はやむをえない…」。しかし本当にそうなのか。差別と犠牲の論理をこえた「共生への道」は不可能なのか。

                 本土の私たちは、まず本書を手に取るべきだろう。本書は、中国史が専門の韓国人研究者による東アジア論であるが、この先の世界との向き合い方を考えあぐねている日本人こそが学ぶべき視点に満ちている。まずは、近代史の構造的矛盾が集積する「核心現場」に向かうこと。著者はその「現場」を、沖縄や台湾、分断された朝鮮半島などに見定める。東アジアの「共生の地平」は、これら「核心現場の住民たちの苦痛を含めた総体的な生に対する共感能力」から生まれる。

                 近代史で徹底的に分断された東アジアだからこそ、そこから新たな普遍性が生み出される。著者が東アジアの近代と丸ごと格闘する中で生み出した、新しい主権構想(複合国家論)、そして新しい歴史研究のあり方(社会人文学)は、その新たな普遍への道標である。

                | 佐々木寛 | - | 10:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                希望の政治学読本 
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                  「希望の政治学読本」第4回目です。

                   

                  和田武『再生可能エネルギー100%時代の到来』(あけび書房) 1400円

                   

                   「再生可能エネルギー100%社会」。エネルギー問題に多少は詳しい(と自分では思っている)人ほど、まずそんなことは「非常識」だと思うかもしれない。この国では、「原子力ムラ」、「安全保障ムラ」などのさまざまな「ムラの常識」が支配していて、そこから逸脱する議論はハナから相手にされない。しかし、その「常識」の信奉者たちの多くは、世界には他にもたくさんの「常識」があるという「常識」を理解できない。それゆえ、新時代の「常識」は、常にムラの外の住人に聞くしかないということになる。

                   本書の著者も、元はムラの住人だった。しかし、そこから抜け出して新しい「常識」を見出し、訴え続けてきた。このように“転生”した人の言葉は聞くに値する。近い将来、再生可能エネルギーは間違いなく安価なエネルギーになる。デンマークは2050年までに再生可能エネルギーを100%、ドイツは電力の80%以上にする計画である。パラグアイはすでに3年前に149%を達成している。このような再生可能エネルギー中心のエネルギー政策は、一部地域の例外ではない。気候変動問題や経済雇用問題、安全平和問題をリアルに見据えた上で到達した、世界の趨勢となりつつある。

                   本書によれば、このエネルギー社会のパラダイム・シフトを支える主役は、政府や大手企業というより、そのあり方を決める市民や自治体である。これからのエネルギー社会は、中央集権型=大規模依存型から、地域分散型=小規模自律型へと移行する。一国のエネルギー政策も、ドイツの「100%再生可能エネルギー地域」プロジェクトのように、それぞれの地域の事情に見合ったミクロな実践が基盤となるだろう。

                   2004年まで太陽光発電の普及量が世界一だった日本、そして世界有数の豊かな再生可能エネルギー資源を誇る日本が、今なぜ世界とは真逆の道を歩んでいるのか。本書は小著だが、このような最重要の争点を包括的に取り上げ、新時代の「常識」を分かり易く提示する。

                  | 佐々木寛 | - | 10:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  希望の政治学読本 
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                    「希望の政治学読本」第3回目です。

                     

                    平田オリザ『下り坂をそろそろと下る』(講談社) 760円 

                     

                     

                     私たちはいつまで「坂の上の雲」を追いかけ続けるのだろうか。本書が投げかける問いは根源的である。そもそも日本はもうアジア唯一の先進国ではなく、かつてのような成長などありえない。現政権が謳う「成長戦略」も、実はその場しのぎの空しい掛け声にすぎない。この国がまさに「坂を下る」プロセスの中にあるということは、本当はもう誰もが気づきつつある「現実」である。

                     こんな聞きたくもない事柄をなぜわざわざ取り上げるのか。「自虐的」ではないか。しかし本書は、「下る」という新しい希望の道程を指し示す。まずは、虚勢を張ったり、ごまかしたりしないこと。自分の衰えや寂しさを正直に見つめ直し、その「現実」から再出発すること。そこから、「勝てないまでも負けない」強靭なリアリズムが生み出される。

                     競争し、勝ち残ることだけを考えるメンタリティからは、えてして差別や排除の病理が生まれる。しかし、自らの弱さや寂しさの根源を見つめる心の習慣からは、他者への寛容や助け合いの契機が生まれる。本書のメッセージはシンプルだ。もうこの国の「不敗神話」は終わった。しかしだからこそ、世界と助け合っていくという、次の新しい生き方を模索することができる。

                     本書によれば、この来るべき「新しい日本」を導くのは、他でもなく「人と共に生きるためのセンス」、すなわちコミュニケーション能力としての文化である。少子化問題も格差問題も、実はそれを解く鍵は文化にある。記憶力や偏差値ではなく「生きる知恵」や共同性を重視した新しい教育実践、利益や地縁ではなく「関心」で結びつく緩やかなコミュニティ、「文化の自己決定能力」と「ソフトの地産地消」によって再生する新しい地方の姿。本書が提起する数々の文化戦略=社会変革は、そのどれもが著者の経験に裏打ちされた説得力をもつ。「時代の坂を下る」新たな旅路は、けっして暗くはない。新しいリアリズムと希望の始まりである。

                    | 佐々木寛 | - | 01:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    希望の政治学読本 
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                      「希望の政治学読本」第2回目です。

                       

                      佐藤仁『野蛮から生存の開発論――越境する援助のデザイン』

                      (ミネルヴァ書房) 3000

                       

                       本当に、「この道しかない」(自民党)のか。地方に住んでいると、中央(東京)から発せられるスローガンに反発を覚えることが多い。しかし、経済政策、エネルギー政策、安全保障政策、社会福祉政策、どれをとっても「もうひとつの道」を明確に示すことはそれほど簡単ではない。今、私たちが直面している<危機>は想像以上に根が深く、一時の政権や単発の政策などで克服できるものではないのかもしれない。「安全神話」や「成長神話」が崩壊したこの国で、いったい何をどう目指せばいいのか。

                       本書は、開発研究の学術的論文集である。しかしその射程は、いわば「新しい文明論」としても読むことが可能なほど広い。日本は、野蛮→「半開」(半文明)→文明という明治以来の単線的発展論を経て、戦後は世界有数の開発援助国となった。そして同時に現在、援助する北とされる南(低開発)という二項対立を超えた、「開発以後」の諸課題にも直面している。つまり、グローバル化する現代世界では、人間の生存という共通問題の解決策を「南北の垣根を超えて地球規模で構想」しなければならなくなっている。

                       本書が提起するのは、単なる開発批判でも、新しい開発モデルの提示でもない。ここで甦るのは、アリストテレスにまでさかのぼる<実践知(フロネーシス)>の伝統である。私たちは、それぞれの地域にとって本当は何が「貧困」で何が「豊かさ」なのかは明確には分からないまま、常に手探りで「開発」を進めなければならない。このスリリングな課題に対処するためには、分業化した専門知というより、全体を見通すしなやかな総合知が必要となる。

                      著者によれば、このようにそれぞれの地域の現実に即して思考する実践的な現場主義という意味では、国土開発も含めた日本の開発史には普遍的な意味がある。来るべき社会のヒントは、まさに自らの足元の歴史の中にこそある。専門書で、これほど読後に爽快感が残るものは少ない。

                       

                      | 佐々木寛 | - | 08:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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