昨日、敬老の日に、「脱原発」を訴え約6万人が東京に集まりました。
けれども、ネットを見てみると、このニュースに対して反感をもつ人が少なからずいることに気がつきました。 若い人が多いようです。
たとえば、「脱原発」と言うだけなんて、無責任だと思う人もいるようです。
また、今どき「デモ」なんて、という違和感もあるようです。
さらには、渋滞が起こって迷惑だ(日常生活の邪魔をしてほしくない)という人もいます。
けれども、公衆の場に人々が集まって何かを声高に主張することから、歴史上の多くの変革が始まったという事実も忘れることができません。憲法に「集会結社の自由」が謳われているのは、それが常に民主的な立憲政治にとって不可欠な権利であったという歴史的な経験に基づいています。
さて、「デモ」も「デモクラシー」も、実は外から評論するだけでは本当のところはわかりません。実際に参加してみると、たとえば今回ひとくくりにされている「6万人」は、きわめて多様なひとりひとりからなっているという事に気がつくでしょう。参加してみれば、楽しいだけでなく、不快な事や違和感もたくさんあるかもしれません。たとえば、自分が歩いている前のスピーカーから、自分の考えとは必ずしも同じではないスローガンが大音量で響いてくるかもしれません。隣で歩いている人は、よく見ると自分が嫌いなタイプの人かもしれません。歩き疲れた挙句、「これで一体何が変わるんだろう」と無力感にとらわれるかもしれません。
けれども、人間が自分の労力を用い、自らの身体を運んで、公共の場で何かを伝えようとすることは、実はそれ自体に意味があります。福澤諭吉を持ち出すまでもなく、いわば、それこそが「デモクラシー」のもっとも根っこにある、基本中の基本なのです。日本人はいつの間にか、その一番大切な基礎を忘れてしまっているように思います。
まずはどんな主張でもいい、社会に問いかけてみる。暴力によらず、ことばと自己表現によって。単に遠目に論評するだけでなく、<参加>することによって。
かつて、ストライキが日本にも多くあった時代、予定されていた電車が動かなくて迷惑を蒙った市民は、それだけで憤慨してストライキ自体を否定することはあまりなかったと思います。当時はストライキがすべての労働者の権利を守るために必要な場合もあることが広く理解されていたからかもしれません。
今日の数万人規模の「デモ」は、その主張に賛成する人のみならず、反対する人にとっても意味があったと思います。それは、「デモ」が「デモ・クラシー」のアルファでありオメガであるという単純な真実を、これによってふたたび思い起こすことができたからです。
デモから始まること (9・19集会によせて)
2011年9月20日