昨夜、NHKでオウム真理教をふりかえる番組がありましたが、警察未押収の約七百本の教団内部録音テープや長時間の元幹部へのインタビューに基いて、オウムを<内在的に>理解しようとする力作でした。
バブル期の日本の影。金と消費に浮かれる「平和」な日本で、極度の精神主義と禁欲を追求し、最終的には「軍事化」した人々。しかし、真逆にはみえるものの、当時の日本の「影」である以上、オウムは個人主義と強さ(成功)への憧れという同時代の「文化」は共有していました。
オウムの信者は、おしなべて真面目で純粋な人たちばかり。グル(尊師)という価値の中心に一歩でも近づくために、身を削って日々修行を重ねる多くの優等生たち。しかし、それゆえに、幹部たちは、グルの意思を常に「忖度(そんたく)」することで、次第にどんどんと誤った方向へと突き進んでいきました。
日本人が、外界とは孤立した組織(村社会)で、暴走に歯止めが利かなくなるこのようなメカニズムは、敗戦を招いた戦時中の日本軍部、原子力事故を引き起こした原子力ムラなどと、まったく変わりがありません。日本軍→オウム真理教→原子力ムラは、明らかに、きわめて似た構造をもっています。(またこれに関連して、捜査する警察幹部が、地下鉄サリン事件を防げなかった理由に、「想定外だった」と言っていたことも印象に残りました。)
また、番組では、松本智津夫本人の暗い怨念や欲望にも接近していました。
金や権力(=力)への執着。弱い者への軽蔑と支配欲…。
そして何より、彼は教団設立当初から、「武装」への欲望を語っていたという事実が明らかにされていました。選挙に完敗してから武装化を進めたというより、オウム自体が、松本にとっては武装化のための手段ではなかったか、という視点は非常に新鮮でした。そうかもしれません。
富士山のふもとに孤絶した「村」をつくり、「外の世界の‘インフォメーション’はすべて無意味となる。それが解脱だ!」と教えた浅原彰晃。屋根裏で、現金980万円といっしょに隠れていて、警察に見つかり、「浅原だな」と問われ、「はい、そうです」と答えた気弱な男…。番組は、この松本という人間の特性からも接近を試みていました。
また見逃せない事として、彼が用いた、「民主的」なファシリテーションの手法があります。弟子たちに「自由」な発言をさせておきながら、いつの間にか自分の意思や絶対性を信じ込ませる手法。意見が多元的であるかのように見せながら、結局はひとつの価値に収れんさせていくという手法です。浅原は、弟子たちの意見を個々にききながら、「他には?」「他には?」と次々に前の意見を無効にしていきます。そして、最後に自分がそれらを全否定する形で、「対話」が終わる。
このオウムの「民主主義」を見ていて、さらに「日本人にとって民主主義とは何であるか」ということが鋭く問われていると思いました。どんなに「民主的」な評議がなされても、日本ではそこに「公的な異議申し立て」(オポジション)が無い限り、民主主義は保証されないのではないか。教団の中で、「浅原さん。あなたの言っている事には根本的な矛盾があります」、あるいは、「浅原さんの言っている用語は難しすぎるのですが、それは原典では本当にそういう意味なのでしょうか」と口をはさむ事ができたかどうか、それが問題です。
オウムは終わってはいません。日本人の心の習慣にDNAのように組み込まれているあるクセが、大きな社会的災禍をもたらすという繰り返されるパターンを解き明かすために、そして、既存の社会のオルタナティヴを夢見る純粋で真面目な人間が陥りやすい罠を自覚するためにも、これからもずっと探求されていくべきテーマだと思います。
オウム真理教は終わっていない。
2012年5月27日