昨日は、再び、「新潟県原子力発電所の安全管理に関する技術委員会」を傍聴してきました。
最近政府は、日本のエネルギー政策について、パブリックコメント、意見聴取会、討論型世論調査などを実施し、広く民意に問いかける試みをしていますが、これに対して、「国家百年の計であるエネルギー政策を、その時の世論に丸投げするのは無責任だ!」という見方も一方であるかもしれません。しかし、これらの多元的な意見聴取の試みは、概して適切な措置であると私は思います。エネルギー政策は、むしろ「国家百年の計」だからこそ、広く民意に問う必要があるのだと言えるかもしれません。
その結果、パブリックコメントの集計経過の89・6%、意見聴取会のアンケート結果の81%が原発ゼロ案に賛成しました。討論型世論調査でも、事前に32・6%だった原発ゼロ案が最終的には46・7%に拡大しました。
そもそも私は初めから、0%、15%、25%の3択という問題の立て方が、官僚的というか、国民を少々馬鹿にしているような気がしてなりませんでした。「なんだかんだで、間の15%に落ち着くだろう」という意図が見え見えであるだけでなく、そのいわば「思想なき思想性」に、正直無性に腹がたっていました(特に「3択」というのが、今のやせ細った学校エリートがいかにも思いつきそうな発想です)。形式的(格好だけの)民主主義でもって、何とかそこそこの体制維持を図ろうとする、いわば「民主党的」な嫌らしさがプンプンしていました。彼らのひねり出した「脱原発依存」(これはまさに15%案ですね)という言い方も、あらゆる方面に配慮した妥協の産物でしかなく、何の思想性も感じられません(もちろん、政治には常に妥協が不可欠なのですが、それは決して右と左を単に足して2で割ることではありません!)。また、しばしば、「原発ゼロなんていう人は、現実を見ておらず、勉強が足らない」と上から目線で評論する専門家(もどき)は、私から見ても、本当に勉強しているとは思えませんでした。
しかし、国民はそんなに愚かではありません。私が知る限り、国民は次第に多くを知るようになっています。多くを考え、多くを学んでいます。しかも、もしかすると、官僚や政治家たちよりもずっと広く、長期的な視野でモノを考えています(その意味で、討論型世論調査を担当した曽根泰教氏が、「国民が覚悟した上での選択」と語ったことには非常に重みがあります)。
また、原発についての、官邸・国会前のデモンストレーションや、各地での住民投票の試みなどにも見られるように、、エネルギー政策をめぐって直接民主主義(参加民主主義)の比重も増えてきているようです。これは、はたして衆愚政治へとつながる道でしょうか。
新潟県の「技術委員会」の試みもまた、従来密室で行われていた「専門家」の技術的な討議を、住民や市民に公開するという多元的民主主義の試みのひとつと位置付けることができます。これは全国に先駆けていて、「リスク社会」時代のデモクラシーを考える上で、きわめて重要なケーススタディーになると思います(下が昨日の会場の様子です。手前の出口に近い、正面スクリーンに背を向けている人たちが一般の傍聴者です)。
昨日は、「国会事故調」の野村修也氏と、田中三彦氏が事故調の調査結果を説明し、それが新潟の柏崎・刈羽原発にとってもつ意味を討議しました。「事故調」作成者の肉声でその内容をきくことで、膨大な内容から重要な論旨(その精神)を理解することができました。特に、「国会事故調」が官邸や政府の介入を大きく問題化したことがマスコミに過大に報道されている事への違和感が表明され、むしろ東京電力の管理責任や官邸への過剰な配慮、「電事連」などの利益複合体などの構造的問題などが強調され、私も「国会事故調」に対する認識を新たにすることができました。
今回の事故はまだ終息しておらず、事故は「想定外」だったのではなく、想定されていたにもかかわらず先送りされていたのだという事も改めて強調されていました。
この報告を受けて、本来、それが新潟県の原発の今後についてどのような意味をもつのかが議論されるはずでした。しかし、そのような議論はあまり見られず、終始細かな技術論や、時に粗雑な感情論が飛び交うだけになってしまいました。私が見たところ、主な原因は、いわゆる「原子力ムラ」の立場をあからさまに代表する数名の委員(衣笠善博氏や香山晃氏)が、些末かつ粗雑な質問ばかりをし、時間をつぶしたからに他なりません。これは正直失笑するしかないほどのレベルで、本当に驚きました。
野村氏が再三、調査対象者の情報に対する守秘義務やこの種の調査書の特徴について説明しているにもかかわらず、香山氏は、「学会の学術論文では必ずレフェリーが居て、結論を導くのに証拠や論拠が必要だが、この報告書には(誰がこれを言ったのか)証拠を見つけられない」などと、何度も質問したり、会のおしまいになって、衣笠氏が、「これを書き換えるつもりはありませんか?」と訊いたり、まあ、いずれもコンテクストを読む能力が皆無というか、ひどいレベルの質問でした(正直むしろ、今後原子力がこのレベルの専門家たちにしか支えられないのだとすれば、一体どうなってしまうのだろうという不安にかられるほどでした)。
参加者の一員である東京電力からは一切の発言はなく、会は終わったのですが、きわめて専門的な議論も、きいていると素人でもだんだんコンテクストはわかってくるもので、それがわかったことは有意義でした。どんなにジャーゴンが飛び交っても、何が争点であるかはおぼろげながらにわかり、また質問や回答がどれほど的確であるかもだいたいわかります。一般市民がこういった技術的な議論に参加することがどれほどデモクラシーに重要であるか、改めて確認しました。
ただ、私は知っているのですが、傍聴席にはたとえば原子炉内部の配管の細かい議論までも完全に理解している人も少なからずいます。長年、原発問題に取り組んできた地元の農家の人や、巻町の原発建設問題の時から運動に参加している方などはきっとそうでしょう。私は彼らを、「対抗専門家」と呼びます。
ですから、全国的にも先進的な新潟県「技術委員会」のさらなる次の課題は、こういった市民たちの「専門的」意見も反映させるということでしょう。
しかしいずれにせよ、新潟県の「技術委員会」の試みの重要性はもっと全国に知らしめられるべきだと思います。そして、さらに多くの新しい人々が、傍聴席に参加することも重要だと思います。それは(くり返しになりますが)、新潟県の原発問題と、この問題に対する取り組みが、科学技術が重要な意味をもつ「リスク社会」におけるデモクラシーのまさに先端的な事例となっているからに他なりません。
原発と多元的民主主義――新潟県「技術委員会」の試みについて
2012年8月25日