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「文明」の再定義について――現代の価値の源泉を考える(メモ)


気の遠くなるような長い時間をかけて、
世代をこえて無数の人たちが、
日々の静かな生活の中で、
自然や神と真摯に対話しながら、
できるかぎりの工夫と創意を凝らして、
少しずつ、営々と磨き上げてきた、
現在の<生>そのものにも痕跡を残す、スタイルや美。
改めて思うのですが、この世界で真に価値あるものを表現すると、おそらくそういうことになるかと思います。きっと真の「文明」というのも、そのような、奢らず、高ぶらず、ただそこに静かに存在して息づいているだけで、どんなに遠くからでもその芳香が漂ってくるような、なんというか、スッと背筋の通った、つまりは自律的な原理をもったものなのだと思います。
つまり、本物の「文明」は、それが営まれる土地とは無関係に、その外側から取ってつけたようにもたらされるものなのでは決してなく、いつもその土地固有の生命の営みと共にありつづける。そしてその固有性ゆえに、時間と空間を越えた普遍的な価値をもつことができる。
ですから、たとえば堅牢だが時間と共に朽ちてゆく巨大建造物などに「文明」の本質があるのではなくて、目に見える明確な形はなくても、人々によって永遠に受け継がれ、現在でも人々の日常の何気ない所作などに、ふと木漏れ日の光のように瑞々しく現れるものにこそ、真の「文明」の証がある。
人は生まれ、食べ、愛し、子を産み育て、土に還ってゆく。実はいつの時代も、人生は、それ以上でも以下でもありませんでした。そこに最大の価値を置き、<真>と<善>と<美>を見ることから、再びすべての学問や教育を始めるべきではないでしょうか。
人類史上、奇跡的なほどに「豊かな」社会を経験し、またその没落も経験しつつある世代の一人の人間として、「文明」への考察は、ひとつの不可避的な義務であるようにも思えます。

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