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再び気仙沼へ

 4月20日~21日にかけて、学生19名を連れて気仙沼にボランティアに行きました。
気仙沼は2度目です。
気仙沼に行く前に、平泉(中尊寺)にも立ち寄りました。平泉も2度目。
確かに金色堂は圧巻なのですが、2度目に訪れると、敷地全体がもっているある思想性に誘われます。


自然の中にひっそりと佇む控えめで素朴な建物の数々。涅槃のような小さな池。悟りに誘うかのような小道…。
戦乱に理不尽な理由から愛する人々をすべて失い、なおかつ、あるいはそれゆえに、朝廷中央権力とは違う奥州(東北)の〈文明〉のあり方を示そうとした藤原清衡の想いが伝わってきます。それはまさに、グローバルな交易と道徳(仏教)によって奥州を再生させる、「覇権」とは全く異なる〈文明〉のあり方と言えるでしょうか。
あいにく翌日、気仙沼では雨に見舞われ、田んぼでの瓦礫撤去作業ができなくなりました。海も波浪注意報がでていて、海岸での作業もできませんでした。おまけに雪まで降ってくる始末です。しかし「禍転じて福となす」と言いますか、今回受け入れてくださった「(一般社団法人)気仙沼復興協会」の方々と長時間にわたってじっくりお話しすることができました。「協会」は、「離職を余儀なくされた方々の収入を確保し、一日も早い生活再建をサポートしたい」という想いから、まさに被災された方々によって自発的に設立された団体です(設立は2011年4月28日)。
スタッフの皆さんは、被災時の壮絶な経験談や、これまで克服されてきた多くの問題について、赤裸々にお話ししてくださいました(下写真)。ここではすべてを公表できませんが、私が一番大きな問題だと感じた事を書き記しておきます。

それは今後の「復興」に関する住民の意識の違いについてです。また、政府と住民との意識のズレの問題です。防潮堤をつくることは、住民にとってもう上からの決定事項だったようで、しかもその堤の高さについてもはじめから決められていたといいます。「はじめに高さありきには違和感があった」とスタッフのおひとりはお話ししてくださいました。
場所によっては16m以上もあった津波に対して、政府は9m前後の堤防をつくるといいます。シミュレーションによるものだそうですが、レベル1(今回のものより低レベル)の津波に対処するためだということです。堤防は、高ければ高いほど、幅(つまり堤防の厚み)も大きくつくらなければならないので、費用がかさむだけでなく、セットバックしなければならなくなる敷地も広がります。しかし他方、高い堤防によって、「防災集団移転」などが必要となる「災害危険設定区域」は狭くて済みます。つまり、その加減によって、個々の住民の運命は大きく変わってきます。
災害を克服して新しい街をつくっていくということは難しいことです。しかし、大切なのはそのプロセスです。そこに住み続ける住民が自分たちで責任をもって自分たちの街や未来を考えることは不可欠なことです。確かに、「防潮堤を勉強する会」などの市民的協議のための試みはあるようです。しかし、防潮堤建設にはまだ十分な納得が得られていないと感じました。
学生諸君と夕食を食べた「屋台村」もまた、防潮堤建設によって取り壊しが噂されていました。しかし元気のいい村長さんでもある女将さんは、「私の眼が黒いうちはけっして許さない!」とおっしゃっていました。
高さ9m前後の防潮堤は何のためにつくられるのでしょうか。うがった見方かもしれませんが、「人からコンクリート」の現政権の臭いがします。明日の生活は、何より重要です。けれども、数十年後、あるいは子や孫の世代にとって現在の決定がどのような意味をもつのかを考えることもさらに重要です。外野からとやかく言う問題ではありませんが、気仙沼の人々の選択は、私たちにとっても無縁ではないと思います。ごく単純な腑分けですが、「3・11」後、「明日の生活」を最優先する「復旧」派と、長期的に「新しい社会のあり方」を模索しようとする「再生」派は、どこでもせめぎ合っていると思われるからです。どちらも重要な課題なのですが、災害から2年が経って、また安倍政権の下で、次第に前者が日本社会の体勢を占めつつあるようにも見えます。
これに関連して、現在住民間で懸案となっているのは、津波で打ち上げられた、あの有名な漁船の扱いについてです。船主さんは解体したいと望んでおられるようですが、数十年、数百年後の教訓のために残すべきだという意見もあります。維持費は年間数千万円にのぼり、市の財政を圧迫するというだけでなく、いつまでも周辺住民の辛い記憶を想起させるという理由から反対する人も多いようです。
学生とここも訪れました。


上段の写真に写っている乗用車の大きさから、この船の大きさもよくわかると思います(下段の写真では船底に潰れた車も写っています)。この大きな船が、海から陸へ約800mも流されてきたわけです。維持費がかかるというのも、実際に見てみるとうなづけます。そばに佇むだけで、当時のものすごい悲劇が生々しくよみがえってくるようです。身近に犠牲者がおられる方々が、毎日こんなものを見つづけなければならないとすれば、辛いことでしょう。
けれども、この事実を決して忘れてはならないとも思います。見たくないという人には配慮する展示方法で、何とか残せないかと思います。それはきっと、子どもや孫たちの世代にとって大きな遺産となると思います。そしてここでも、「明日(今)」か、「未来」か、の二つの方向がせめぎ合っています。

上の写真はバスの車窓から撮ったものですが、1年前と比べて何も変わっていませんでした。放射能の問題が少ない気仙沼でも、「復興」には何年かかるか想像がつきません。この前代未聞の災厄から、私たちは新しい社会をつくりだすことができるでしょうか。それとも依然としてお金と中央権力が支配するかつての東北への「復旧」を目指すのでしょうか。
「気仙沼復興協会」のあるスタッフの方は、気仙沼がかつて「スローフード都市宣言」を謳ったということを誇らしげに語ってくださいました。豊かな自然や観光資源の可能性。多くを失いながら、しかしだからこそ、新しい社会のあり方を語るその姿をみて、むしろ訪れた私たちが勇気をいただいた気がします。そして、あの藤原清衡の古(いにしえ)の想いも、不思議とそこに重ね合わせることができたのでした。

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