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「新しい政治」について

また前の投稿から時間が経ってしまいました…。
この間、夏の参院選に向けて、今私が住んでいる新潟で「野党統一候補」を実現すべく、「市民連合@新潟」の共同代表として奮闘していました。「市民連合@新潟」は昨年12月に立ち上げたので、この活動はもう約4か月になります。
いろいろありました。未知の体験ばかりでした。政治学者の端くれであるにもかかわらず、選挙や政党の内側にある生々しい実像も、ちゃんとわかっていなかったのだと思います。勉強になりました。
正直、これまで「選挙」自体には、他の政治的な争点に比べて元来あまり高い関心があったわけではありません。けれども、近年特に「一度選挙で勝てば何をやってもいい」と言わんばかりの傍若無人な政権が暴れまわっているので、さすがに次の選挙ではくさびを打っておかなければならないと、一人の市民として重い腰をあげたわけです。
幸い、新潟では、いくつもの偶然と関係者の努力によって、民進党・共産党・社民党・生活の党・新社会党・みどりの党の野党6党が推薦する野党統一候補が実現できそうです。手前味噌になりますが、これほど包括的な野党統一候補で、かつ市民連合がその共通の場づくりに活躍した例は、全国でも稀だと思います。
全国でも進む「野党統一候補」運動の最大の功労者は、明らかに共産党です。志位和夫は今、永田町で一番光っている政治家だと言えるでしょう。しかし、影の功労者は、皮肉にも、歴史上例を見ない程に分かり易く国民を愚弄し続けた安倍晋三かもしれません。野党を結束させたのは、他でもなく与党の強権政治自体だったと言えます。
野党(Opposition)は、文字通り、「与党に対抗する力」です。言葉を変えて言えば、「公的異議申し立て」の力です。それはデモクラシーにとって不可欠の条件です。それがなくなると、社会は全体主義に向かいます。今回の新潟も含めた「市民連合」の試みが持つ意味は、まさにこの「Opposition」の機能を社会に回復させることにあると、私は思っています。
全ての絶対的政治権力は絶対に腐敗する…。それは歴史の法則です。生命が常に新陳代謝をするように、政治権力も常に非権力者にチェックされ、相対化されなければ、社会は健全に存続できません。定期的に行われる選挙はそのためにあります。また、ひとりの市民も、その永続的な「Opposition」を形成するために、政治権力からまったく「自由」であるわけにはいきません。ここが重要です。自らが政治権力から免れていると思う事は、実は、政治権力の恰好の餌食になることでもあるからです。
さて、政治がしょせん「悪さ加減の選択」だとしても、市民が積極的に選挙活動に関わるという事は、この国ではなぜかあまり良く思われていません。「市民連合@新潟」でも、今そのジレンマに悩まされています。統一候補を誕生させ、いわばそれで終わってもいいのですが、本当に「Opposition」の機能を社会に回復させるためには、その候補を現実に当選させる必要があります。M.ウェーバーの「責任倫理」というやつです。政治は結果がすべて…。良心に基づいて一生懸命やっても、結果がダメなら政治的には意味がありません。この宿命もまた、市民が共有しなければなりません。「きれいな市民」「イノセントな市民」は理念型としては存在しても、現実の政治的実践においては、そんなに簡単にはありえません。
「3・11」後、この国では、これまでデモにも行ったことがなかったような人たちが大勢、国会前や公園や広場で「公的異議申し立て」を日常的に行うようになりました。それは否定しようもなく、この国のデモクラシーが一歩前進した証です。長年の「おまかせ政治」の限界が明らかになっているわけです。さらに、こういった自分の生活・生命・社会のあり方を、自分の言葉で考え、表現しようとする人々が、今度は選挙という制度的デモクラシーの場においても積極的に発信し、社会的対話を積み重ねるようになっています。もちろん、何でも「参加」すればいいってもんじゃありません。いつも政治権力に対しては、注意深く接する必要があります。
しかし、「観客=評論家」としての市民だけがいくら居ても、結果的にデモクラシーは発展しないどころか、むしろそれを劣化させてしまうことが、だんだんと明らかになりつつあります。「デタッチメント」ではなく、「関与し、まみれる市民」。まみれて、衝突し、そして「学び合う市民」。「闘争」に参加することは、必ずしも平和に反する事ではありません。戦争や大規模な暴力を回避するために日常的に「闘う」ことがいかに重要か、「和」を好む日本人の私たちは、特により強く自覚する必要があると思います。
「新しい政治」といっても、古くて新しいことを、何度も何度も再発見することでしかありません。そしてその「発見」は、いつの時代も、生(なま)の政治状況の中で、その試行錯誤の中でのみ可能となります。たとえば、「選挙は選挙のプロがやる」という常識をまずくつがえす必要があります。選挙もまた、市民の深い教養や身のこなし、文化の一部として実行されなければなりません。いわば、「選挙を民主化する」わけです。
新潟でも、日本でも、この新しい市民政治はまだ始まったばかりです。これからたくさん躓(つまづ)きながらも、デモクラシーが成熟する長い道程の基礎を築くことができると信じています。かつての先人たちも、勇気をもってそれを為し遂げましたが、私たちもそれに倣おうと思います。
 

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