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断末魔としての「改憲」

いよいよ安倍首相は、2020年に改憲を果たすと明言しました。

 

言うまでもなく、彼が変えたいのは「9条」です。具体的な条文云々というより、何よりも「象徴としての9条」を変えることが彼の(すぐれて個人的な)悲願となっています。

 

9条2項まではそのままにして3項に自衛隊を位置づける「加憲」の提案や、「教育の無償化」を新たに謳うといった提案は、すべて事実上9条の本質を変更するための政治的な「方便」にすぎません。そのことは、もうすでに多くの心ある人々が見抜いている通りです。もう「変える」こと自体が自己目的化していて、まるで映画『博士の異常な愛情』の世界のようになっており(安倍首相を見ていると、核爆弾にまたがって嬉々として落下していくコング少佐を思い起こします)、事態はもはや社会心理学的なアプローチ無くして把握が難しくなっています。

 

「この道しかない」ということなのですが、確かに、今の政権与党(あるいはそれに付き従うだけの官僚たち)の世界観、これまでのいきさつ、彼らの実際の政策能力などを鑑みれば、もう彼らに取りうる選択肢は他にないのだろうというのは、分かる気がします。異次元的金融緩和、オリンピック、改憲、武力衝突(戦争)などなどのいわば「政治的なカンフル剤」をその都度、その場限りで打ち続ける以外に、大衆の同意を調達し続け、政治権力を維持する方策がないというのは、もはや日本だけの現象ではありません。たとえば、現在迷走するトランプ政治は、安倍政治の二番煎じ、あるいはパロディーのようにも見えます。やぶれかぶれの極右政権の誕生は、今や世界中のトレンドとなっています。われらが自民党も、「この道しかない」というより、「もう打つ手がない」というのが真実に近いでしょう。また「機が熟した」というのも、実際は「今やらないと、もうできない」ということだと思います。

 

さて、そんな安倍政治を支持する大衆は愚かでしょうか。必ずしもそうではありません。もしかすると、安倍政治が抱える<危機>の根深さを一番肌身で直観しているのが、これら多くの有権者かもしれません。<危機>の根が深いことを知っているからこそ、安易な政権交代や、口当たりのいい理想論に希望をもつことができないのかもしれません。絶望した政治的指導者と、絶望した民衆は、確かに「呼応」しています。長期的に絶望している人間は、えてして短期的には楽観的にふるまいます。刹那的な今日の明るさは、明日の絶望とむしろ親和的だと言えます。日本全体は、とりあえず2020年に向かって(その後は考えずとも)、走り抜けようというメッセージは、絶望した人々の偽りの「希望」を喚起するでしょう。昨今の政治的指導者の役割は、「もうウソでもいいから今だけはいい気分にさせてくれ」という民衆の要望に、ただひたすら刹那的に応えるだけとなってしまっているように見えます。

 

確かに、<危機>は根深いのです。

しかし、それはどこまで根深いのか…。

 

来年は、明治維新150周年です。鹿児島では、今から期待を込めてカウントダウンが始まっているようです。しかし私の考えでは、現在の<危機>の根源は、だいたいそこいら辺から考える必要があります。「文明開化」と「富国強兵」という一貫した近代のプロジェクトがエリートたちによって継続的に推進され、また挫折してきた歴史。それが日本の近代史です。たとえば、福澤諭吉が夢見た「文明」の開化は、実は未だ達成されていません。「文明」の最大の要諦である「多事争論」、すなわち熟議民主主義は、この国ではまだ一向に社会の血肉とはなっていません。また、「富国強兵」の「強兵」プロジェクトは、敗戦で完全に挫折しました。ただ「富国」プロジェクトは、戦後冷戦体制の羊水の中で継続され、いったんは成功したように見えました。しかしそれも、「3・11」(第二の敗戦)で再び挫折しました。中央集権的、一国主義的、エリート中心主義的「近代」の限界がだんだんと露見するようになっています。

 

「この道しかない」と考える人々は、もうこうなったら、たとえば教育勅語に帰るしかない、と考えます。下手をすれば、もう一度しっかり戦争をやって勝てばいいんだ、ということなのかもしれません。「敗戦」を認めることができない、「敗戦」を契機に「転生」するのではなく、もう一度「敗戦」前に戻ってやり直そうということなのかもしれません。しかしこれもすぐれて社会心理学的アプローチが必要な領域です。米国に徹底的に服従しながら、もと来た戦前の道を引き返すというのは、論理的な矛盾を抱えているからです(つまり、米国の望む日本の再軍備と、日本のタカ派の思い描く再軍備は本当は同じではないということです)。結局、非合理的な錯乱した選択が「ナショナリズム」という万能の皮袋に包まれて、さらにコントロール不能な混乱を巻き起こすという、とても悪いシナリオが浮かび上がります。

 

「もう一つの道」はあります。細くて険しいかもしませんが、また時間がかかるかもしれませんが、本当の希望への道です。それは、第一の敗戦と、第二の敗戦との両者の失敗を、忘却するのではなく、逆に徹底的に見つめ続けることから生まれます。いわば、失敗や挫折を「転生」に接続する道です。この新しい道は、<近代>のプロジェクトのはじめに立ち帰って、たとえば、真に安全な社会とは何か、真に豊かな社会とは何か、真に「文明的」な社会とはなんであるのかといった、もっとも基本的な事柄を、最初から考え直すことによって生み出されます。

 

安倍首相の「改憲宣言」は、私には、行き詰った<近代>の断末魔のように聞こえます。そこには、子どもや未来の世代を託せるような、長期的な希望はまったく存在しません。せめて150年以上前に日本の<近代>を設計した多くの優れた先達たちが、悩み、苦闘したレベルにまで、今の私たちは立ち戻る必要があると思っています。

 

 

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