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オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』

ゼミナールで、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』を再読しています。

このディストピア小説はあまりに有名ですが、読み返すと改めて多くの発見があります。

階級、性、死、生命工学、労働、道徳、宗教、家族、科学、芸術、歴史などなど、<文明>を構成するあらゆる要素が、根底的に再検討されています。1932年発表ですから、ジョージ・オーウェルの『1984年』の16年前に書かれているにもかかわらず、むしろ今読んだ時に新しいと感じる点がたくさんあります。もちろん、あらゆるこの手の近未来小説にあるように、この90年の間に通信技術などハクスリーの予想以上の進展を見せたものもあるので、ストーリーには時代遅れに感じる部分もあります。けれども、それ以外は恐ろしいほど当時から見通されていたものがあったのだと感心します。

舞台は、「9年戦争」で炭疽菌がばらまかれた後の世界。これ自体がリアリティがありますが、「平和」と「安定」を実現するために、人間の真の自由が封じられた社会です。人間の激しい感情を封じ込めるために、家族や恋愛、自然への愛好、葛藤や病苦は廃絶されています。とくにシェークスピアが代表的な禁書であることが特徴的です。階級ごとにふさわしい能力を備えるよう、工場で計画的に人間がつくられていきます。人間はもはや母親から生まれるのではなく(それは「卑猥」なこと)、瓶から生まれるので、出産ではなく、「出瓶」になります。この「すばらしい新世界」では、かつてヒッピー(対抗文化)の象徴だった麻薬とセックスは、むしろ体制を温存させるための重要な装置になっています。セックス、スポーツ、スクリーン(テレビ・映画)、そしてソーマと呼ばれる副作用のない麻薬という、いわばこの“4S”が人々のお慰(なぐさ)みとして完全供給され、人々は心から満足し、体制は永続的に安定しています。

<文明>とは、清潔(殺菌)である。<文明>とは、人間の一切の「苦痛」や「不幸」を取り除くプロジェクト…。

かつて藤田省三は、現代社会を「安楽の全体主義」と批判しましたが、そもそも<文明>が内在させている論理、その行き着く先とは、全体主義なのではないか。

階級格差や明白な人種主義はあっても、人々はそれを当然のこととして受け入れ、満足しています。大切なことは「真実(リアル)」ではありません。徹頭徹尾「消費者」にすぎない大衆が、システムから与えられるのは、カストマイズされた幻影と慰みに他なりません。「みんながみんなのもの(恋愛なきセックス)」、「きょう楽しめることを明日に延ばすな」、「歴史などたわごとだ」というセリフは、「ポスト真実」と呼ばれる現代世界を、約1世紀前から予言していたかのようです。

ここに登場する「野人」こそ、「すばらしい新世界」への最大の挑戦者なのですが、その救いようのない結末は、一読者として抵抗を感じながらも、受け入れざるをえません。ハクスレーもきっとそう考えたように、<文明>の論理的な帰結は、おそらくそういうことだからです。

<文明>の新しいかたちを求めて。私たちは、人間の「自由」を、その陰の部分も含めて、<文明>にどう位置づけるのかについて原理的につきつめて考えることを避けて通れません。最後に野人は、「僕は不幸になる権利を要求する」と言っています。また<文明>から逃れた野人が、最後にふと歌を歌い出すことにも重要な意味があると思います。この本は依然として、汲めど尽きせぬ問題提起を発し続けています。

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