約3か月ぶりの投稿です。フィリピンを訪れ、その後3月頭にデンマークに再び訪れた後、新型コロナウイルスの猛威で、もうとうてい海外などには行けない状況になりました。海外どころか、東京にも行けません。あっという間です。
このブログは、「3・11」の衝撃から始まったのですが、今回の世界中を駆け巡っている疫病の衝撃は、それに匹敵するものです。まるで毎日映画のディストピア作品を観ているようですが、幸いにも、原則一日中家に居なければならないので、雑事を免れてゆっくり考える時間もあったりします。
「3・11」も新型コロナウイルスも、文明論的な問いを、人類につきつけています。私は、この文明論的な問いについて、人類は今、全力で答えを探さなければならないと考えています。どちらも、私たちの〈安全〉とは何か、という根源的な問題を提起していますし、舞台が〈地球(惑星)〉レベルであることと、専門家たちの果たす政治的機能が顕著であること、また災厄に対するあらゆるレベルでの〈政治の機能不全〉も共通したテーマです。
ただ今回は、ウイルスという、この生物か無生物かわからない存在について考えてみました。彼ら(と呼びます)は、ひたすら自己のDNAを複製すべく、他の「生物」に寄生するわけですが、私にとってそれは、彼らが「生きようとするもの」=「生物」である証である気がしてなりません。もちろん、生物学的にというより、詩的にです。脂肪とDNAだけというもっともシンプルな形を選択し、重要な事以外はすべて切り捨てた「生きざま」にはとても迫力があり、いわばバロック化した生命体である人間にはそれだけで脅威である気がします。
さて、大切なことは、彼らが、取りついた生命体をあまりにも傷つけると、自らも死んでしまうという事実です。人間が死ねば、他に引っ越さない限り、ウイルスも死ぬ。なので、おそらく「生かさず、殺さず」というのが一番良いわけです。しかし今回の新型コロナウイルスが世界中を席巻している理由は、その恐るべき感染力にあります。ある人には無害(かのように見せて)、しかしある人には個体を死に追いやるほど猛毒である。またたとえ個体が死んでも、他の個体に容易に拡散して生きることができるというその戦略は、本当に洗練されています。
彼らは人間にとっては、本当に厄介です。けれども彼らは、私たちと同じか、もしかするとそれ以上にこの世界で「生き残る」ために必死なのかもしれません。そして、ふと冷静になると、ウイルスを毛嫌いする私たち人間もまた、たとえば母なる〈地球(惑星)〉にとっては、あるいはウイルスのような存在なのかもしれないと、思ったりします。私たちはこの〈地球(惑星)〉に寄生し、そこからエネルギーを得て日々生きている。しかし、私たちが「生きる」のに必死なあまり、この地球を壊してしまうことで、実は私たち自身が生きていけなくなる。これは、ウイルスと人間との関係と、とてもよく似ていると思います。
先ほど、ウイルスは、生物でも無生物でもない、と書きましたが、本当は、「無生物」=〈地球(惑星)〉と私たち「生物」の媒介役(メディア)として捉えた方が真実に近いのではないか。そしてもしそうだとすれば、今回の災厄も、あるいは「地球からのメッセージ」として捉えることもできるかもしれません。