私が普段接する大学の学生たちが、ちょうど自分の子どもたちと同じ年齢になりました。それで一教師としても、一父親としても、自分の次の世代について具体的に考える機会が多くあります。
20数年教師をしながら、「世代論」は、もうあまり妥当しないのではないかという気がしていますが、ただ同時代に生きるというだけで、その時代が刻んだ共通の気風は多少はあるかなとも思います。それに、講演などで多くの方から「今の学生や若者はなぜ政治に無関心なのですか?」という質問を多く受けることもあり、自分の子どもも含めて、その内に秘める根源的な絶望感をどう考えればいいのか、常に気になっていました。
あくまでもあてずっぽうなのですが、息子や娘の世代を表す一つの表現が、「とりま」だと思っています。「とりま」は、「とりあえず、まあ」の意味です。
彼らが一度として景気の良い社会を見た事がないのは、1990年代以降に生まれた他の世代と共通しています。世界では戦争やテロのニュースばかり。その暴力の気配は、じわじわと日本社会にも忍び込みました。しかし問題は、根源的な矛盾や社会問題が、表面は明るい消費社会で覆い隠され、先送りされてきたということにありました。市民社会は明るいまま、内側から腐っていくというイメージです。
学校では、大人たちが次の時代についての確たる自信もなく、「とりま」受験勉強に勝ち抜き、日本の既存のシステムで無難に生きていくための適応術を子どもたちに教えます。大人たちが生きている確たる自信も実感ももないのですから、その子どもたちの「自己肯定感」が高くなるわけがありません。まさに、「すべてが揃っているけど、希望だけがない国」。
無責任なエセ知識人が、「物語の終焉」や「歴史の終焉」などと称する時代の中で、このじわじわと没落していく日本社会をもっとも敏感に感得してきたのが、今の若者たちであることは言うまでもありません。まさに堕ちてゆくしかない中で、「とりま」生きていくことが「生きる」意味になります。
「とりま」と並んで、私の子どもの世代が多用したことばのひとつが、「病む」、あるいは「メンヘラ」という言葉です。「メンヘラ」は、「メンタルヘルス」の略だそうです。こんな時代ですから、心を病むほうが健全なのかもしれませんが、個々人の鬱々とした絶望感や不安感は、すべて「自己責任」だと信じ込まされます。問題は、社会の問題なのではなく、あくまでもその個人の問題、特にその個人の適応能力の問題にほかなりません。この世界は、他者に弱みを見せれば即、「カースト」における「下層民」行きなので、普段かかえる私的で重たい相談は、たいがい誰にも話せず、一人で抱え込むのが流儀です。暴力はどんどん内側に向かっていきます。
「とりま」勉強し、「とりま」大学に行き、「とりま」バイトし、「とりま」単位をとって卒業し、「とりま」就職する。満たされない承認欲求は、「とりま」SNSの「いいね」で解消する。
いわば、社会や歴史のリアリティから切断され、ただ現在起動するシステムだけに連結された〈生〉。まるで強制収容所の死にゆく囚人のような人生。
このように仮に考えた場合、現在世界を覆っている新型コロナウイルスの脅威はどう考えられるでしょうか。少なくとも、この歴史的な災厄は、若者を取り囲んできた「全体主義」システムに多少なりとも亀裂を生み出しているがゆえに、ひとつの契機であると言えるのかもしれません。システムのお約束を守り、徹頭徹尾社会の消費者であり続けることでは、真に幸せな人生などはとうてい不可能である、と気がついたときどうなるか。
けれども、賢明な若者たちは、動物的にそんなことはもうとっくにわかっているのかもしれません。わかりながらも、「とりま」今日を生きているのだと思います。この絶望の深度について、まずは理解する必要があるのかもしれません。