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「新しい生活様式」について

先日、この国の首相が会見して、「新しい生活様式を取り戻す」という、日本語として少々意味不明のフレーズを使っていました。「新しい」のであれば、過去に存在していなかったわけで、「取り戻す」というのはおかしいわけですが、この国の首相はもとよりすっかり原稿を読むだけなので、きっとスピーチライターによる間違いか、あるいは、お得意の「印象操作」を狙った言い回しだったのかもしれません。新しい行動制限を国民に強いるというのはそれだけでは印象が悪いので、あたかもかつての生活が取り戻せるかのように印象づけたかったのかもしれません。しかしだとすれば、またしても国民をずいぶんと馬鹿にしたものです。

さて、厚生労働省のホームページを見てみると、「新しい生活様式」とは、「まめに手洗い」とか、「対面での打ち合わせは換気とマスク」とか、すでに私たちが実践しているものばかりで、正直「新味」はありません。まるで小学校の生活指導の先生が児童に行う「生活指導」のようです。これを「新しい生活様式」というのなら、これを「取り戻す」というのが、さらにわからなくなります。

このブログにも以前少し書きましたが、今回の新型コロナの災難は、その原因を冷静に探ってみるなら、単なる「天災」としてではなく、限りなく「人災」に近いものとして考えるべきだと思います。開発優先の近代文明が臨界点に近いことを、地球そのものが警告しているのではないか。そしてもしそうだとすれば、今回の災難は、「3・11」の時と同様に、「文明災」としても位置づけられるべきではないか、ということです。

しかしその場合、私たちは、さらに恐ろしいことも想定しておかなければならなくなるでしょう。それは、今回のコロナ被害が単なるプロローグ(序章)にすぎないのではないか、ということです。今回の悪夢が過ぎ去れば、私たちはその夢から覚め、また以前のようにこの地上を自由に闊歩できるのではないかと誰もが願っています。けれども〈現実〉は、今回よりもさらに凶暴なウイルスが次々と登場するような世界が私たちを待ち構えているかもしれません。杞憂になればいいのですが、冷静に考えると、この悪い方のシナリオに現実味があります。

そこで、もう一度私たちが将来営むべき「新しい生活様式」(新しいライフスタイル)を考えてみましょう。生活における持続可能な「安全」は、もっとも優先度の高い価値になるでしょう。またそのために、地球上の生態系(エコシステム)の均衡を破壊するような行為を、私たちはこれまで以上に慎まなければならなくなるでしょう。今もっとも幅を利かせている「自分だけが良ければいい」、「〇〇ファースト」などという愚かなイデオロギーも否定されなければなりません。また、「今だけよければ」というのもダメです。そのような資本主義的な「合理性」を追求した結果が、今私たちが直面している「共滅」という危機だからです。

また、新しい生活における「安全」は、単に国家や政府に「おまかせ」するだけでは実現しません。ましてや国家が引き起こす戦争や軍事力という手段はピント外れで、次第に役に立たないものになるでしょう。私たちが「生き残る」ためには、外敵をつくって戦っている場合ではなく、とにかく今後は、あらゆる境界を越えた連携と連帯が必要だからです。「新しい生活様式」では、自然環境だけでなく、隣人にもごく優しくあるための心の習慣やトレーニングが必要になります。日々の生活の中から、差別や偏見を無くし、非暴力的にものごとを解決するためのさまざまな実践が蓄積される必要があります。地域の自治に基づく様々な日常的実践から「安全」を構築することができれば、政府による非常事態宣言や戒厳令、あるいは管理や監視がなくても十分に(あるいはむしろより有効に)疫病をはじめとする現代的な危機に対抗することができるようになります。

このように、今回のコロナの経験をしっかりと踏まえた「新しい生活様式」とは、革命的な変化を含む概念であるはずです。私たちが経験しているのは、たとえば、対面で実際に会うことができなくなった人間たちがつくる社会で、本当に「人間的」な生活ができるのかといった根本的な問題に他なりません。テレワークやオンライン会議という形式は、確かに「新しい生活様式」の一例ですが、あくまでもウイルス問題への表層的な対応の一例にすぎません。今後、私たちが人間同士のコミュニケーションをどのように構築していくべきなのかという広大な課題は、依然として残ったままです。

「新しい生活様式」の定義を、今の政府に「おまかせ」することはできません。残念ながら今の政府は、大切なことばを次々と無力化することだけには長けているようです。「新しい生活様式」は、まさにこれからの私たちの包括的な実践によって構築されなければなりません。

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