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当たり前の小さなしあわせについて

 昨年大晦日のNHK紅白歌合戦は、最高視聴率を記録したようです。
毎年変わることのない、当たり前の番組を、多くの日本人が家でみていたということでしょう。
震災があって、このいわば「当たり前の小さな幸せ」が、多くの日本人にとってずいぶん貴重なもののように感じられたのかもしれません。
毎年元旦、わが家では家から徒歩1分の地元の神社に初もうでに行くのですが、そこで当たり前のように賽銭を投げ、当たり前のように鈴を鳴らし、家族の健康を祈る人々をみていると、この「当たり前の小さな幸せ」こそ、何千年も変わることのない庶民の願いだったことに改めて気がつきます。
ぼくも、100円の小さなおみくじに一喜一憂し、神社の配る無料の甘酒を飲んで、いつものように当たり前の初もうでを無事終えました。
しかし、ぼくの隣で真剣に手を合わせて祈る地域の人たちを見ていて、今年の自分の願いごとはいつもとはちょっと違う感情が混じっていたように思います。いつものように、自分の家族や親類、友人たちの安全や健康はもちろんのこと、それに加えて、同じようなささやかな願いをもつ、この神社に集う地域のすべての人々が、そして、地球上のすべての同じような「庶民」たちが、ごく当たり前の小さな幸せを享受できることを心から願わざるをえませんでした。
高度成長の真っただ中で育った自分は、正直言えばこの日本的な「小さな幸せ」の不自由さに辟易し、それを軽蔑するが故に少々ヤクザな研究者の道を選んだということもあるのですが、歳をとったのか、成長したのか、あるいは退化したのか、最近はこの「小さな幸せ」の絶対的な重みに気づかされることが多々あります。
現実に、私たち「庶民」は、その多くが何も、ものすごい帝国主義的な野心をもって生きているのではなく、ほんの当たり前の小さな幸せを得るために、あるいはそれを守るために生きています。日本国憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活」とは、そういう私たちのささやかな願いを意味しているのかもしれません。しかし、その「当たり前の小さな幸せ」ですら、なかなか得ることが難しくなっています。しかも、それを得られる人々と得られない人々の間に新しく境界線が引かれ、それをめぐって世界中で新しい闘争が始まっています。
ここで必要なのは、旧約聖書の「ノアの箱舟」のような多くの犠牲を前提とした一部の救済(選民)の思想ではなく、宮澤賢治、あるいは芥川龍之介「蜘蛛の糸」に描かれるような「全員救済」の思想だと思います。「当たり前の小さなしあわせ」の見直しは、「ベイシック・インカム」の議論や、実体のある人間的なコミュニティの見直し(「村々する」こと?)など、たくさんの新しい提案にもみられますが、それをあらゆる境界線を越えて構想することは可能でしょうか。
ともかく、私たちはまず「当たり前の小さな幸せ」の再定義から始める必要がありそうです。

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