今日のニュースで、広島の原爆慰霊碑の碑文にまたもや赤い塗料がかけられていたということを知りました。これまで何度も何度も同じことがありました。
最近の石原慎太郎の『新・堕落論』にも、この碑文が「自虐的」で、日本が自前の核をもつための障害になってきたと書かれています。それで、今回の事件も同じような思いをもった人間がやったのではないかと推測できます。
どうやら、「過ちは繰返しませぬから」の主語がないのが、原爆投下の責任の所在を曖昧にしているだけでなく、自虐的だということらしいのです。ヒロシマの市民はあくまでも被害者で、原爆投下の責任はアメリカ大統領にあるのだから、この文章はしっかりと告発の文章でなければならないというロジックなのでしょう。
けれども、それは碑文の本当の意味をかなりミスリーディングしているように思えます。この碑文は、そもそも<告発>のために書かれた文章ではないからです。
「安らかに眠ってください。もう過ちは繰返しませぬから」という日本語は、どう読んでも、何回読んでも、もっと深い人間の尊厳を訴えかける文章であるように思えます。
主語が、「人類」にまで拡大されていることは、ヒロシマの経験が、単に加害と被害の無限連鎖を越えて、「人類」にとって普遍的な意味をもっていることを意味しています。核の投下と被爆いう経験が、バタイユの言う「至高の経験」であるからこそ、主語は、私とあなたすべてになるわけです。
詩人、石原吉郎『望郷と海』にも指摘されているように、<告発>から生まれるものには限界があります。人間の深い次元での再生をもたらすためには、自らが単に「被害者」としてだけでなく、「加害者」として立ち上がることが不可欠です。
そういう、まさに人間の多層的な現実を理解するために存在するのが文学的な感性だと思うのですが、それを「自虐的」だとしか感じられない人が文学者を名乗り、また政治家として支持されてしまう昨今の事態にこそ、この国の本当の危機が存するわけです。
心よりの、悲しみをこめて。
過ちは繰返しませぬから
2012年1月5日