先日、学生たちとの飲み会で、卒業後の進路を展望して意気消沈する学生を励まそうとアレコレ希望のある話を絞り出そうとしている最中、ふと、何だか空しい気持ちに襲われました。
今の時代も、人生も、簡単に幸福への道は開けません。前向きに、前向きに生きようとしても、出口を見失ってしまうことばかりです。景気のいい「未来像」は、自分でも、どれも皆嘘くさく思えます。
教師たる者、威勢よく、若者に未来への道を指し示し、彼らの肩をたたいて元気づけなければならないと、いつも気負ってきたのですが、彼らの身になってこれからの生きる道を考えれば考えるほど、どうすればいいのかわからなくなってきます。
ただ、ただ、オタオタするばかりの大人…。
まずは無力な自分に残念です。
けれども、その一方で、まずはそれでいいのではないか、まずはちゃんとオタオタしてみよう(それが人生だ)、とも思います。
そういえば、私は子どもの頃、重度の喘息もちで、しょっちゅう入院していて、それは苦しかった思い出があるのですが、よく考えてみれば、今よりも生きることを<危機>の中で捉えていて、普通では見逃されてしまうようなこともよく考えていたような気がします。
病の感覚や自分が弱いという感覚、そして不幸や絶望の中にいるという感覚は、その中にいる時は一刻も早くそこから抜け出したいと思っているのですが、けれども後で考えてみると、そういう時こそ、人間としてもっともよくものを考え、見えないものを見る力と共にあったということに気がつきます。
しかし今は、喘息にもいい薬が出て、私ももう発作の苦しみからは解放されました。またそれだけでなく、一応家族にも仕事にも恵まれ、なんと住宅ローンも抱え、お腹にもたっぷりの脂肪がついてきました。そしてそういう「安楽」との引き替えに、今、私は大きな「何か」を失っているような気もします。
病や弱さや不幸は、現代では、できるだけ避けられるべきものとして忌み嫌われていますが、それが払拭されてしまった人生や世界もまた、「豊か」ではないような気がします。自分が「弱い」という自覚からは、しばしば他者や世界への恐怖、攻撃性も生まれますが、それは「本当は弱くてはいけない」という思い込みが前提にあると思います。しかし「弱さ」の積極的な自覚は、逆に、他者への配慮や想像力、生きる知恵や勇気を生み出すこともあります。
これは、<「弱い」ことは可能性である>、というヴァルネラブルの思想です。これは「人間主義」の根幹をなす思想に他なりません。
病・弱さ・不幸――ヴァルネラブルの思想について
2012年5月23日