昨年誕生した米山県政の公約でもっとも重要だった、「原発事故に関する検証委員会」のメンバーの一部が昨日公表されました。原発立地自治体とはいえ、一地方自治体が自前の予算で、これほど包括的に検証を行う例は日本で初めてではないかと思います。3・11後、政府事故調や民間事故調などによる大規模な検証がなされましたが、その後、この種の包括的な検証はなされていません。
私は「平和」の条件を学問領域を横断する視点から考える「平和研究」の可能性を追求してきましたが、同じように、原発という複合的な問題領域を横断的に検証するこの検証委員会の試みが、かねてより歴史的にも学問的にもきわめて重要であると考えてきました。最大のメガテクノロジーのひとつである原発について、研究者や市民が時間をかけて徹底的に熟議を行うという意味で、ここでなされる試み自体が、単に一県知事の公約であることを超えて、さらにはるかに普遍的な意味をもっていると思っています。
公約にあったように、これまでの「技術委員会」に加え、「健康・生活委員愛」、「避難委員会」、さらにはこれらを総括する「総括委員会」が設置されます。昨日は、「健康・生活」と「避難」の2委員会の委員の公表でした。私の名前も「避難委員会」に掲載されました。以前よりこの検証委員会の歴史的意義について知事にもお話し申し上げていたのですが、それもあってか、県より就任の打診を受け、快く引き受けました。
まず、ここに参加するすべての委員や関係者が、この試みの歴史的意義について理解することが大切だと思います。そして、その意義が、何も原発の再稼働について、その賛否の結論を出すということよりもむしろ、まさにその議論のプロセスにあるということも理解されなければなりません。議論はあらゆる素朴な疑問や観点を排除してはなりません。なるべく多くの分野の専門家、加えて生活者や市民の視点を取り入れなければなりません。そこでできるだけ多くの争点を出し、「熟議」することがこの委員会の使命だと思います。委員会は原則公開し、議論された内容は、わかりやすく市民に伝えられ、市民間の学習や熟議の材料となる。それが理想だと思います。
ほとんどはそうではありませんでしたが、一部の新聞では、私が知事選で知事を応援した主要メンバーであったがゆえに、「中立性」に疑義があるかのような記事をみかけました。それは残念ながら、全ての現象をわかりやすい右・左、白・黒の二元論で描こうとしてリアルな現実の把握に失敗してしまうという、まさに「アウト・オブ・コンテクスト」の一例だといえます。今、原発への評価について、いろいろな考えがある事は当たり前で、それを前提として、再度一から検証してみましょう、ということなので、熟議の始まる前からまるで結論が決まってしまうかのような考えをもつとすれば、それはもはや検証や熟議そのものの可能性を初めから否定することになってしまいます。
また、「知事に近い人物がいると中立性が保てない」(ある県議)という意見は、論理的には、この委員会を立ち上げ、検証をふまえて最終的に判断する知事自体がそもそも中立的でないという前提となります。これはおかしな議論です。イデオロギーや党派などだけで物事を考えると、この検証委員会の本当の価値が台無しになってしまいます。
原発への「評価」の前に、科学的な論理の積み上げがあります。またそれ以上に、そこに多様な「議論」がある。それが民主主義社会において最も重要な事なのです。
この試みは「成功」するかしないのか、わかりません。今後の私たちの努力次第でしょう。けれども、もし「成功」するのだとすれば、それはこの試みに関わるすべての関係者が、こういった基本的な内容を十分理解し、合意することが前提にあると思います。
<民主主義>が再び、試されているのだと思います。