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「日本の思想」としての原発事故

 今日の夜のNHKニュースによれば、1号機の核燃料が実はほとんど全部溶けてしまっていて、それで原子炉の底に穴を開け、大量の水が漏れだしているということです。いわゆる「メルトダウン」…。しかもその外側の格納容器からも建屋などに大量の放射線水が漏れだしているということです。いくら水を入れても水位が上がらないわけです。一番終息への期待が高かった1号機が、またもや「想定外」にボロボロだったというわけです。あるいは今後「再臨界」も覚悟しなければならないかもしれません。
NHKの記事の扱いは、<東電作業の「工程表」が見直しになる>というものでした。しかし、問題の本質はそこにあるのか。
例のごとく、東京大学大学院の岡本孝司という「専門家」が、この事件の解説を若干にやけながらしているのを見て、思わず吐き気をもよおしました。彼は何で微笑むのでしょう。
彼が語るに、「工程表とは、そもそもこのように修正しながら進められるものなので、たいした問題ではない」とのことです。本当か。終息が1日でも遅れれば遅れるほど、どれだけの人や生命が苦しみ続けるのか、彼には想像もつかないのでしょう。
組織のリーダーたちの甘い見通しとその場しのぎの無責任な体質は、先の大戦からまったく変わっていません。問題なのは、それが「またもや」きわめて甘い見通しの「工程表」だったということにあります。その場の評判や世論を気にして、勇ましい希望的観測だけを発表する。その大本営的体質こそ、数々の「大失敗」の原因をつくってきたということを、いつになったら気づくのでしょうか。
人間は、長期的にはオプティミストであるべきだと思いますが、短期的にはペシミストであるべきです。東京大学大学院の専門家も、東京電力も、日本政府も、なぜ「最悪事態」を想定し、議論できないのか。この問題は、もはや「日本の思想」そのものに内在する問題であるというべきかもしれません。

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