新聞で3人の死を立て続けに知りました。
ひとりは、言うまでもなく、金正日総書記。
隣国の独裁者の死は、国際的には、期待よりも不安を掻き立てています。
私は、以前平壌で、彼のお父さんである金日成の冷凍ミイラと対面しました。それで気がついたのは、「独裁者の孤独」と言うべきものです。「独裁者」とは言え、それは権力の頂上にただ居るというだけで、いわば権力の神輿に乗っただけの、(それはあまりにも日本の天皇に似た)「支配者」にすぎませんでした。その悲しい亡骸の隣に、もうひとつの悲しい亡骸が加えられるのでしょうか。
もうひとりは、ヴァーツラフ・ハヴェル。チェコの元大統領です。学生時代、ひとりの文学者が大統領になった東欧革命の意味について学びました。「憲章77」、「反政治」、「ビロード革命」、「権力なき者の力(power of the powerless)」…。当時の東ヨーロッパからは、これまでとはまったく異なった政治のことばが日本にも届いてきました。私の(国際)政治研究者としての出発地点を思い返すと、彼にまつわる多くの記憶が今でも鮮やかによみがえってきます。
あれから20年。あの東ヨーロッパも、普通の「自由」なヨーロッパになってしまったのでしょうか。ハヴェルの死は、一人目の死と真逆の意味をもつようで、しかしある時代の終わりを共通に意味しているような気もします。けれども、それが何であるのか、まだよくわかりません。
三人目は、ロバート・スカラピーノ先生。バークレーでお会いしました。私がおずおずと自己紹介をした時に握手してくださった時の温かい手の感触が今でも生々しく残っています。90歳になってもシビアでシャープな分析を、ゆっくり分かりやすい英語で講義してくださいました。
訃報をきいて、またひとつ何か歴史が終わったような感覚にとらわれました。「20世紀」が終わった…、という感じでしょうか。これからの東アジアはどうなっていくのか、まだ考えをききたかったと思いますが、もうかないません。
三人の死は、やはり共通した「何か」の終わりを暗示しているように感じられて仕方がありません。けれども、それが何であるのかは曖昧なままです。約束された何もないまま、「次」の時代が音を立ててやってくるようです。
3人の死
2011年12月20日