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シンガポールで考える 1

シンガポールに行ってきました。初めてでした。
雪の新潟から気温30度以上の熱帯へ。
ただの観光地として訪れる以外にどんな深みがあるのか、正直期待していませんでしたが、本当にいろいろと考えさせられました。
結論から言えば、グローバル化に徹底的に国家が適応するとこうなる、という生の姿を垣間見ることができたと思います。経済成長率14%以上。失業率は3%以下。文字通り、まさに高度成長の只中にあります(写真の一番上はマリーナベイサンズ57階から)。



物価もうなぎ上り。貧富の格差も拡大しています。おそらく億単位の世界一高い給料をもらう大統領と、一方で下は月収が5万円以下の人々。不満も高まっています。
タクシードライバー(経験上だいたいアジアでは中産階級に当たります)に水を向けると、例外なく、今の状況に憤懣やるかたないという意見でした。もちろん、あからさまな政府批判はできない国なので(「豊かな北朝鮮」という悪口もあります…)、タクシーの個室の中だけで、安心できると見た人だけに政治的な意見を吐露してくれます。
これは良く知られたことであるようですが、シンガポールでは投票は国民の「義務」で、投票用紙はすべてIC番号がついているので、事実上秘密選挙ではありません。政治活動や政治的な自由はことごとく抑圧されています。現地の人に教えてもらったのですが、唯一集会が認められているのは、「speakers’ corner」がある「ホンリム公園」だけです(下写真)。しかもこの公園の隣には、警察署がそびえています…。
けれども、陰でコソコソではあれ、人々が自分の意見をもち、旅行者にさえ話すことができるようになったということは、社会が健全になりつつあることを意味しています。国家が真にグローバル化に適応するためにも、社会における思想や政治的な「自由」がむしろ必要であるということは、政策決定者自身も受け入れざるをえないのだと思います。シンガポール社会もまた、これから10年ぐらいの内に、さらなる「民主化」を経験するようになるのでしょう。

「自由を取るかパンを取るか」で、明確に「パン」を選択し、国際市場で生き残るためのあらゆる政策を迅速に遂行してきた、動き続ける都市国家、シンガポール。
シンガポールから見ると、日本はまるで巨大で愚鈍な年老いた恐竜のようです。きくところでは、教育の基本原理はすなわち「競争」。小学校6年生で行われる統一テストで人生の方向がほぼ決まってしまうため、教育熱心な親たちはまさに鞭をもって小さい頃から子どもたちに勉強を詰め込みます。トップエリートは、国家が手厚く保護をしますが、そういうエリートに限って、アメリカの大学に留学したまま帰って来ず、まさにコスモポリタンとして世界を舞台に活躍します。
コスモポリタン。
華僑、客家の伝統なのか、シンガポールという「国家」は、無味無臭というか、きわめて観念的です。総人口約500万人中、約150万人が外国人。外資や外国の優秀な頭脳をどんどん招き入れることで経済を活性化しています。したがって、シンガポールの市民権概念には、文化や土の匂いがしません。いわば、「市民(ブルジョア)国家」の理念型のような国。したがって、むしろ今の野党勢力や民主化勢力のほうが「ナショナリステッィク」である(時に排外主義的でもある)、という(台湾と同じような)ねじれ現象が見られます。
私は、シンガポールに、21世紀のグローバル国家の姿を見た気がします。停滞した日本が「生き残る」ために学ぶべきことも多くありますが、正直、日本のような「ゆるい」社会で良かったなとも思います。歴史のトレンドは、きっとシンガポールの方にあるのでしょう。日本はアジアを蔑視しているうちに、もうアジアからも取り残されています。しかし、それが人間にとって良い方向なのかどうかは別の問題です。
対談した、シンガポール国立大学(NUS)のH先生は、今の日本が勇気をもって原発から手を引くこと、そして個人個人が内発的で自立した思考を開花させることが今の日本再生の条件であると指摘されていました。 私もまったく同感でした。

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