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コミュニティを奪われた人々――アチェ訪問から考える ②

アチェの人々について考えるということはどういうことか…。彼らは、津波、内戦といった幾重にも重なる苦しみや抑圧を受けてきました。しかし「開発」もまた、彼らの苦しみの層のひとつを形成してきたということは、忘れてはなりません。しかもこの「層」は、人々の苦しみのもっとも基層をなしているとも言えます。
次に訪れたチョッ・マンボン集落は、日本の政府開発援助(ODA)で土地が収用された人々がひっそりと暮らす村でした。1977年に日本ASEAN首脳会議で尿素肥料工場建設が決まり、もともと漁民だった彼らは、415世帯が内陸部に移住することになりました。しかし行ってみると、約束されていた田畑も6か月間の支援もなく、彼らは山奥で何十年も見捨てらたまま生きることを強いられたということです。現在、16世帯。その子どもたちの家も入れると約30軒の村でした。
下の写真は、マタン・スリメンよりもずっと粗末な集会所です。ここで多くの村人と交流しましたが、参加者が床いっぱいに座ったので、壊れないかと心配でした。

ひとりの女性(60歳)が言うには、村の今一番の問題は、きれいな水がないということだそうです。川の水は汚れていて、しかも遠い。海外の支援でできた一軒の家の井戸を見せてもらいましたが、その水も写真のような色で、量も足りません。

下の写真は、その井戸があったお宅です。このお宅は、移住当時の面影を残した家だそうで、快く見せていただきました。庭で胡椒などのさまざまな作物を栽培していて、そのたくましい暮らしぶりが印象に残っています。けれども、そもそも漁民が山奥での暮らしを強いられたわけですから、その苦労は想像を超えます。その下は、村の雑貨屋兼、喫茶店(だと思います)。ここでおいしいコーヒーもごちそうになりました。止まったようなゆっくりした時間は、「貧しい」村にあって私たちには普段持つことが難しい「豊か」な時間でした。



ODAや日本企業の進出による住民の排除や環境被害については、すでに多くの報告がなされていますが、Sさんの案内で、同じような土地収用でできた同地域のアルン液化天然ガス(LNG)社やイスカンダル・ムダ肥料工場などを眺めていると、途上国における資源開発現場の政治がもつ共通性が浮かび上がってきます。ありていに言えば、日本政府や日本企業と途上国権威主義体制(軍)との共犯関係によって、国内の少数者や弱者が弾圧され、抑圧されるという構造です。
下の写真で海岸の向こうに見えるのは、日本のODAで建設されたアルン社です。もう天然ガスが枯渇しつつあるので、将来この美しい海岸に残されるのは、プラントの廃墟だけになるかもしれません。インドネシアのLNGのほとんどは日本に輸出され、日本の天然ガス総輸入量の約3割はインドネシアに依存しています。これまで日本は、世界中から天然資源をかき集めて「豊かな」生活を維持してきました。そのつめ跡が世界中に残っているわけです。
新しい<文明>を考えるとき、それはもはや一国単位の枠組みではまったく不十分であることがわかります。そしてその中心的な争点として、何よりも<エネルギー>の問題があることも、次第にだれの目にも明らかになりつつあります。

 

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