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コミュニティを奪われた人々――アチェ訪問から考える ①

イラクで見たコミュニティベースの「平和構築」については、これからも引き続き考察を続けていきたいと思います。これに関連して、オリバー・P・リッチモンド(Oliver P. Richmond)というイギリスの平和研究者が『自由主義的<平和>をこえて(A Post-Liberal Peace)』(2011年)という本を書いていますが、この彼の視点もこれからの強力な援軍になりそうです。
さて、私の研究者仲間の一人であるSさんのおかげで、先日(2014年3月)インドネシアのアチェを訪れることができました。インドネシアも、そしてもちろんアチェも初めての訪問でしたが、アチェの人々と強固な人間関係を築き、その社会の奥底にまで根を張って研究を続けてこられたSさんのおかげで、短期間であるにもかかわらず、多くの経験と学びを得ることができました。
アチェは、インドネシアの中でマレーシアに近いスマトラ島北端の州で、日本では、バリのような観光地とは異なり、津波や内戦などのニュースで知られています。下の地図の緑色の部分がアチェです。

訪れたのは、アチェの二つの集落です。ひとつは、ハンセン病で長年にわたって地元でも差別を受けてきた人々で、そのせいで津波の際にも支援が遅れたマタン・スリメン集落。そしてもうひとつは、日本の政府開発援助(ODA)で村を追われて山間部に移住を余儀なくされたチョッ・マンボン集落です。普通はなかなか行ける場所ではありません。クアラルンプールからバンダアチェ、バンダアチェ(空港)からさらに車で6時間、やっと集落近くのロスマウェに着きます。
アチェはちょうど選挙期間の真最中で、下の写真にあるように、各政党の旗が道路脇にたくさんはためいていました。女性もバイクに乗っていて、それは同じイスラム圏のイラクとは大違いでした。ちょっとピンぼけですが、赤い旗は、インドネシアからの独立を訴える「自由アチェ運動」の旗で、一角がすべてこの旗で統一されている地域も多く見られました。


華人資本によるミルクフィッシュ(サバヒ)の養殖所(これはエビの養殖所がダメになった後つくられるということです)を横目に、雨が降ると水浸しになる悪路を車で行くと、マタン・スリメンです。



マタン・スリメンは約26世帯の村です。上の写真の建物は、村人が集まり、お祈りをしたり相談したりする集会所です。ここで村の人たちに大勢来ていただき、辛い話ですが、津波や内戦、ハンセン病差別の話をうかがうことができました。村長のフンスルさんによれば、家族から隔離され「葬式にも招かれない」ほど差別を受けていた彼らは、津波によってさらにすべての家が流され、多くの人たちが亡くなったそうです。しかし、皮肉なことに、津波以後、オランダなどの支援もあり、逆に差別は少なくなったということです。すべてを「平等に」破壊しつくした津波によって内戦が終息に向かったアチェ。自然災害と人災との関係について考えなければならない多くの問題を投げかけてきます。村長さんは、ジャワ島のテガルで同じハンセン病患者たちの様子を視察してきたばかりのようで、比較をしながら、何よりも自分たちの集落には仕事がなく、最初の自己資金がないことが自立への大きな妨げになっていると訴えていました。
ここで子どもたちの将来の夢をきくこともできました。ムハンマド・ザムザミくん(7年生)は、お医者さんになること。タマリヤちゃん(1年生)は歯医者さん。アムラくん(4年生)やエフくん(6年生)はサッカー選手。それから多くの子どもたちが、体育の先生、算数の先生、宗教の先生など、学校の先生にあこがれていたのが印象的でした。
次の集落、チョッ・マンボン集落については、「コミュニティを奪われた人々――アチェ訪問から考える ②」でご紹介します。
最後の写真は、マタン・スリメン訪問の途中にあったサムドラパセ王のお墓の写真ですが、地元の人によれば、このお墓だけは津波がよけて通ったそうです。これが本当なら、津波は「平等」ではなかったことになるのかもしれません…。


 

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