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マルクスの取り組んだテーマはやっぱり普遍的だったということについて

若い人たちとの読書会で、マルクスの『共産主義者宣言』(平凡社ライブラリー)を再読しました。
自分が若い頃から何度も読んできた本です。しかし残念ながら、読むたびにその内容を忘れ、読んでみてはまた忘れるの繰り返しでした。概して、マルクスの翻訳本は苦手のひとつです。
けれども、この平凡社版は、そのタイトルでもわかるように、テキストの真意をくんで極力わかりやすい訳になっているので助かりました。また今回は「文明論」の観点から読んだので、いろいろな発見もありました。巻末の柄谷行人さんの解説も腑に落ちました。
当時(彼が29歳の時です!)のマルクス思想の限界もよくわかりましたが、その欠落や時代的制約性をこえて、彼の格闘したテーマの普遍性を再認識しました。彼の主張はある意味シンプルで、資本主義的な私的所有制度そのものを変革しない限り、本当の人間解放は訪れないということです。
マルクスはグローバル化の基本的な論理を理解していましたし、それがもたらす社会の姿についても的確な見通しをもっていました。
「かれら(ブルジョア階級)はすべての民族に、いわゆる文明を自国に輸入することを、すなわち、ブルジョア階級になることを強制する」、「ブルジョアが執着する文化とは、大多数の人間にとっては、機械となるための教化でしかない。」「何故そうなって(恐慌が起こって)しまうのか? 社会に文明がありすぎ、生活手段がありすぎ、工業がありすぎ、商業がありすぎるからだ。社会が自由にすることのできる生産力は、もはやブルジョア的文明およびブルジョア的所有関係の促進には役立たない。」…
マルクスにとって「文明」とは、まさにブルジョアが作り出すものにほかならず、歴史の中で乗り越えられるべきものでした。しかし、逆に言えば、ブルジョア文明を克服した世界にこそ、人類にとって真の「文明」があるのだと言い替えることもできるかもしれません。
この本の後半でマルクスが否定する、「共産主義」と似て非なるものたちは、空想的社会主義や保守的社会主義も含め、どれもその社会変革が不徹底であるがゆえに、おのずと歴史的限界をもっているということになります。「人間の顔をした資本主義」と「空想的社会主義」との間に現況を突破するためのヒントがあると思っている私としては、サン=シモン、フーリエ、オーウェンといった思想家たちは、今こそ再読・再評価するべきだと思っていますが、マルクスの「共産主義」にとっては(ある程度は評価をしながらも)まだまだ不十分なのです。
しかし、資本主義、すなわち私的所有関係の根源にまで変革の力を及ぼすことなしに真の革命や人間解放はないという彼の指摘は、やはり正しいと思います。最近、トマ・ピケティやセルジュ・ラトゥーシュなど、このマルクスの取り組んだ大テーマを再び正面から取り上げようとする思想家が注目されていますが、時代がそれを要請しているのだと思います。次の問題は、「それをどう実現するのか」という<方法>の問題にほかなりません。

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