またしても、多忙を言い訳に3か月ぶりの投稿です。
おかげさまで初めての選挙に勝利し(!)、しかし歓喜にひたる十分な暇もなく、疲れが出たのか夏風邪をひいていたところ、『日刊ゲンダイ』に毎週水曜日に書評を連載することになりました。シリーズのテーマは「希望の政治学」。ですから、このブログの趣旨とほぼ同じです。それでここには、すでに活字になった原稿を随時掲載することにします。
第1回目は、柄谷行人さんの新刊です。
柄谷行人『憲法の無意識』(岩波書店) 760円
参院選が終わり、自公政権が「圧勝」だったというマスメディアの報道は、はたして本当だったのだろうか。結果をつぶさに見れば、現政権の「終わりの始まり」を看てとることはできないか。少なくとも、「改憲」へのゴーサインが出たという総括には無理がある。
選挙期間中、現政権は極力「改憲」を争点化しないように努めた。しかし選挙後には、予想通り、「承認が得られた」として着々とその手続きを進めようとしている。くり返されるそのような政治手法に、当の国民もいくらなんでもおかしいと思い始めている。今後いずれにせよ、都知事選や衆院選を迎える中で、安倍政権下の政治では、ますますこの国家の構成原理=憲法をめぐる問題が争点となるだろう。
しかし本書を読めば、安倍政権の目論見がそれほど簡単ではないことがわかる。それは、日本国憲法九条の枠組みが、日本人の(徳川時代にもつながる)歴史的な「無意識」に根差すもので、それが常に超越的に現実社会を規制するからだ。著者によれば、九条は憲法の条文である以上に、日本の「文化」(超自我)である。したがってこの原理に反すれば、いかなる政治権力もその足場を失うことになる。さらにこの「文化」は、世界史上の無数の平和思想から「贈与」されたという普遍的経緯を有しており、その意味で、憲法が「押し付けであったかどうか」という議論はきわめて皮相的なものとなる。
本書は、「九条があれば安心」というタイプの条文信仰の議論を排し、いわば「九条の血肉」を明らかにし、そのリアルな普遍性を再確定しようとする。「改憲派」であろうと「護憲派」であろうと、憲法議論は少なくとも本書が到達した地平から出発すべきだろう。すなわち、日本の「改憲」問題の中心にはしっかりと九条の問題が鎮座しているという政治的事実。そしてそれが「押し付けられた」がゆえに普遍性をもっているという政治的事実である。