大学のゼミナール合宿を兼ねて、昨日まで宮城(南三陸)にボランティアに行ってきました。宿は気仙沼でとり、気仙沼の被害状況も見てきました。
南三陸では海岸の清掃がれき撤去作業。炎天下の中、学生諸君も本当によくがんばっていました。
上の写真の遠くに見える高層ホテルの5階部分まで津波がきたようです。美しかった砂浜は地盤沈下で多くが海底に沈み、またその上にがれき混じりの泥が降りかかりました。
いっしょになった、クロネコヤマトの職員の方々は、力のあるところで、砂浜から次々に出てくる大型のがれきを掘り出していました(写真上)。これは漁具を置く鉄製の棚でしょうか。本当に重くて、掘り出すだけで数時間かかっていました。他にも、電線やアスファルト、漁のための網や木製の柱などが次々と出てきました。大きなものは、ロープをつけて学生たちとまるで絵本の「おおきなカブ」のように、皆で引っ張って引きずり出しました(それにしても感心したのが、クロネコヤマト。会社として社員にボランティアを推奨しているのだそうです)。
作業を通じて、改めて気がついた事が三つあります。
まず、三陸のリアス式海岸の意味です。そういえば、このリアス式海岸は、山が沈下してできあがったものだと学校で習いました。つまり、ここは歴史上「沈む」のが常なのです。景観が美しく、栄養が豊富な三陸の海は、まさに山が沈んでできたからにほかなりません。私たち現代人は、その海の幸のことばかり考えて、津波が来たり地盤が沈下することは「異常」なことだと考えがちですが、そもそも、津波や地盤沈下はこの土地では「正常」なことで、そのことと、海の豊かさは切っても切れない関係にある、ということです。
次に、これは言うまでもないことですが、津波の持つエネルギーの大きさです。これは行ってみて初めて実感できます。われわれは総出で数時間かかって、ほんのちっぽけながれきをようやく砂の中から取り出すわけですが、自動車や家なども一瞬のうちに流して埋めてしまう津波というのは、人間のコントロール能力をはるかに超えた力をもっていることがわかります。ですから、原発の前にいくら高い堤防をつくっても無駄です。それは現場の惨状を見れば誰でもわかります。津波は、人為によってはとうてい対抗できないエネルギーをもっています。
下の写真は、有名な気仙沼港の近くの打ち上げられた大きな船ですが、この船の底には車がつぶれています(さらに下の写真)。いったいどうやったらこうなるのか…。
そして改めて気がついた最後の事。それは、人々のたくましさです。
海岸作業の際に驚いたのは、全国からボランティアに来る人々を見事にさばき、適切な現場に配置し、作業を手際よく指導する、ボランティアセンターの関係者の方々、そしてその短い説明だけで、その初めての作業をチームワークを発揮しながら達成してしまうボランティアの人々の姿です。敗戦からの復興時も、日本人はきっとこんなんではなかったかと想像しました。何という集団的パフォーマンスの高さ。何という初等教育の力。不謹慎ですが、この国民は本当に戦争に強いだろうな、と思いました。もちろん日本人だけではないと思いますが、特にこういう現場での日本人はすごい、と毎回感じます。
下の写真は、気仙沼港近くの「復興屋台村」です。また津波がくるかもしれないので、案内図には「避難経路」も明記してありました。人口はどんどん高台に移動しているようですが、低地で生きていかなければならない人々、低地で生きようとする人々もいます。
お店のご主人にきくと、3月11日の津波の前には港の海の底が見えたそうです。
吉村昭の『三陸海岸大津波』にもあるように、津波の前には、そこかしこで海の底が見えるという現象が起きます。吉村によると、東北地方では、津波の事を明治まで「よだ」と呼んでいたそうですが、その生き物のような響きは、現場の津波のイメージと本当にピッタリです。この本の中にも、「稀に来る津波のために日常生活を犠牲にできない」と考えた漁民たちが時間が経つと次第に再び低地に住み始める、という繰り返しの「業」のような歴史が描かれています。
人間と自然。その間に小さくはさまっている社会。
自然は人間に無差別に恩恵と不幸をもたらす。
けれどもその中で大きな差別を生み出すのは、いつも<社会>であるという事実。
今回の訪問もまた、私の心にいくつかの重く大きな気づきを与えてくれました。