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<政治>の失敗としてのナショナリズム

今年の「8・15」集会も無事終わりました。
今年は、<政治>をいかに市民の手に取り戻すかというテーマで、教育、地方政治、地域などの現場で先端的な活動を展開しているパネラーを呼んで議論しました。<政治>の無力に対して、新しい公共空間の創出で対抗しようというものです。新しい<政治>の輪郭が浮かび上がる、とてもいい会合になりました。
その帰り。
この時期なので、やはり気になって、少しだけ靖国神社を訪れました。

ちょうど右翼の街宣車などによる大きなパレードが終了したころで、それほどの混雑はありませんでしたが、多くの人たちが参拝にきていました。

道行く人たちはいずれもごく「普通」の人たちで、まあ、白黒のシックな服装の人が多いという事を除けば、普通の市民集会にやって来る人々と区別はできません。
きわめて真摯に、厳粛な気持から、参拝にやってきているようでした。
<政治>が行き先を失って、隣国でも草の根ナショナリズムがくすぶり始めている中、「真面目」な人々がナショナリズムへと向かってゆく構造はとてもよく理解できます。
人間は、いかに表面上は「非政治」を装ってはいても、やはり「政治的な動物」で、政治的な意味空間抜きには十全に生きていくことができません。その隙間をどんどんと埋めつつあるのが、ナショナリズムなのです。その意味で、近代ナショナリズムの生命力は不滅です。
ナショナリズムの特徴は、まるで核分裂のように、ナショナリズムはナショナリズムによって生み出され、増殖するということにあります。しかも、生来臆病な人間の<生>の意味を、もっとも効率よく提供できる。
政治社会の方向性や包括的な意味を紡ぎだす<政治>の営みがやせ細ってくると、このもっとも簡易なナショナリズムが増殖します。
靖国神社の前では、中国の「法輪功」、台湾の反中国民族主義などもアピールをしていて、それぞれ固有の意味がある活動だとは思いますが、「反中国」だけでどうして日本の右翼と連携できるのか、その思想的な底の浅さを感じざるをえませんでした。
そう考えると、この図式はまたしてもアメリカ合衆国の東アジア戦略にとってきわめて都合のいい内容になっている事に気付かざるをえません。いささかオカルトですが、このようなナショナリズムの噴出には大きな政治的意図すら感じられます。
危機の時代に煽られるナショナリズムは、いつの時代も<政治>の失敗の産物であり、けっして民衆を幸せにはしてこなかった、という歴史の経験を今、私たちは冷静に思い起こすことができるでしょうか。
かつて福澤諭吉の時代に「文明」の基準であった近代国民国家は、20世紀の野蛮を経由して、21世紀にどのように、あるいはどのような「文明」と切り結ぶのか。あるいは、「文明」とナショナリズムが並走していられた時代はもはや過ぎつつあるのではないか。
そのような、根源的な問いが浮かんできます。しかしいずれにせよ、2012年の「8・15」集会は、その成功と希望の後に、私にとっては再び暗い予感が立ち込めるものとなりました。

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