最近、今さらという感じもしますが、スポーツや教育現場での指導者による暴力が問題になっています。これもみんな知っていることですが、告発を受け、マスコミで責任を問われている指導者は全体のほんの一部で、ほぼすべての学校やスポーツ指導の場面で、大なり小なりの「暴力」は当たり前のようになされていたと思います。
「セクハラ」や「パワハラ」と同じで、問題は「どこまでが暴力か」、「どこまでがパワハラか」、「どこまでなら訴えられないか」、ということではありません。そういうとらえ方だと、いつまでも、「教育現場で多少の暴力は必要な時がある」とか、「最近の若い女性はあまりに潔癖で、親しみのコミュニケーションを悪意のハラスメントと誤解する」などという愚かな物言いが消えることはないでしょう。
問題は、そういう表面的なところにあるのではなくて、もっと根本的なところにあります。問題は、暴力(あるいはハラスメント)をする主体(多くの場合オヤジ)が、そもそも〈指導〉や〈教育〉(ハラスメントの場合は〈コミュニケーション〉)そのものについてまったく間違った理解から出発しているというところにあります。
〈教育〉を、力や能力を持つ指導者が、学習者にその力を注入する、あるいは無理をさせてでも身につけさせると考える以上、それは大なり小なり「暴力」を伴うものになります。それはいわば「開発」の思想です。外発的発展の思想と言ってもいい。それは確かに、一定程度まで学習者の能力を効率的に向上させることができます。しかも短期間に。
しかし、経験上、そして原理的にも、そのような〈教育〉からは、真の能力や創造性、永続する可能性は導かれません。真の〈教育〉は、いわば学習者の内発的な能力を最大化することに他ならないからです。卵の中で雛が外に出ようと殻をつついたまさにその瞬間に、親鳥の「外」の力が程よく加わり、雛は羽化することができるという「啐啄同機(そったくどうき)」こそが〈教育〉のアート(奥義)なのです。したがって、教育はけっして暴力から生まれえないというのはもちろんなのですが、それよりそもそもこの二つの原理は対極に位置しているわけです。
そして思えば、日本の近代は、そして日本の近代教育は、ずっとこの意味における「暴力」を肯定してきたとも言えます。教師が生徒に、指導者が弟子に、上司が部下に、先輩が後輩に、男が女に、相手を「開発」の対象(客体)として位置づけ、「教育」や「愛情」という名のもとに実質的な「支配」を繰り返してきた歴史…。
かつて鶴見和子さんが提唱した「内発的発展論」を再び思い起こします。あわてて近代化することが、いかにその後の主体をゆがめてしまうのか。
それゆえ、今回、スポーツ界の暴力問題をまさに女性選手たちが問題化したということには、深い意味があると思います。彼女たちの勇気ある行動は、よい兆しです。それは単にスポーツ界の責任者が数名職を辞すれば済むことでも、校長先生たちがカメラの前で反省したふりをしたりすれば済むことでもなく、もっと日本社会の根本的な変化を要請していると考えるべきでしょう。