この前のブログ(「『文明』の再定義…)の内容に関連して、柳宗悦(やなぎむねよし)の古典、『手仕事の日本人』(岩波文庫)を手に取りました。
あっという間に夢中になり、最後まで読んでしまいました。
以前はこんなタイトルの本はあまり読みませんでしたから、自分がずいぶん変わったのだと思います。
この本は、単に、柳宗悦=民藝運動家という先入観を突き抜けて、むしろ、戦時中に書かれた優れた「文明」論として読むことができます。そしてまずはその先見性に驚かされます。
日本を「手の国」と呼び、長い時間をかけて磨き上げられた、たくさんの種類の「手仕事」にこそ、未来の希望と可能性があると見通しています。「手仕事こそは、日本を守っている大きな力の一つ」という柳の指摘は、リーマンショック後の世界を経験している私たちには、まるで予言のようにもきこえてきます。
「そもそも手が機械と異なる点は、それがいつも直接に心と繋がれていることであります。……手はただ動くのではなく、いつも奥に心が控えていて、これがものを創らせたり、働きに悦びを与えたり、また道徳を守らせたりするのであります。」
モノと自然と歴史(伝統)と人倫(精神)を融合させるものとしての「手」の働きに着目し、暗に近代化や資本主義が極度に進むことに潜む罠を指摘しています。「3・11」後の今読むと、なんという「新しさ」でしょう。
平易なことばで、深い思想を伝えるのは、私が届かぬ目標とするところでもあります。
たとえば「伝統」について、柳は以下のように言います。
「伝統とは長い時間を通し、吾々の祖先たちが、様々な経験によって積み重ねてきた文化の脈を指すのであります。そこには思想もあり、風習もあり、智慧もあり、技術もあり、言語もあるわけであります。」
「伝統は丁度大木のようなもので、長い年月を経て、根を張ったものでありますから、不幸にも嵐に会って倒れてしまうと、再び旧のように樹ち直るのは容易なことではありません。起こし得たと思っても前ほどの勢いはなく、ついには枯れてしまう惧れがありましょう。……もとより伝統を尊ぶということは、ただ昔を繰り返すということであってはなりません。……伝統は活きたものであって、そこにも創造と発展とがなければなりません。樹木は育ち来り、また育ちゆく樹木であります。」
ここで、伝統という大木を倒す「嵐」とは、彼にとってはたとえば戦争でした。特に沖縄戦は、沖縄の多くの手仕事を破壊しました。そのことを、柳は繰り返し語っています。
彼のまなざしは、無名の民衆、しかも「中央」から遠く離れた民衆の地道な生活の「美」に注がれます。柳は、「人間の真価は、その日常の暮らしの中に、最も正直に示される」と言い、田舎には、未だ「自ら作って暮す風習」が残っていて、そういった自律的生活の中から実用に即した本当の美しさが生まれるのだと言っています(一方、西欧化に邁進する「都会」は、えてして、「儲けることに夢中」になり、「とかく正直な仕事を忘れ」てしまうわけです)。おおざっぱですが、みごとに事物の中心を射抜いているような指摘で、これも、大きくうなづくしかありません。
柳はこの本の中で、新潟小千谷の「小千谷縮(ちぢみ)」を大絶賛していました。厳しい自然環境で、しかしだからこそ生み出された奇跡…。新潟が大切にするべきものは何か。また考えさせられました。
モノにこだわっていくと、自ずと民衆の生活に入り込むことになり、さらには、それによってやがては国境をも超えてしまうことになる。そのダイナミズムもこの本にはあります。「民藝というコスモポリタニズム」です。
この他にも、「文明論」として、この本には汲めど尽きせぬ滋養を見出すことができるでしょう。
柳宗悦 『手仕事の日本人』 を読む
2012年9月13日